1899年(明治32年)生まれの父。1973年(昭和48年)74歳の生涯であった。
身体は決して大きくなかったが生来の負けず嫌い。腕力は他に引けをとらなかったと言う。
若き日の栄光が今も我が家の床の間に、静かに飾られている。父の匂いのする宝物である。
明治の終わりから大正、昭和の初め頃。大衆が喜ぶ芸能などというのが、特にこんな田舎ではお目にかかることは少なかった。
そこへ登場するのが、神社の縁日や何かにつけての神事で、奉納相撲が行われた。
そういった意味では、元々相撲というのは神様に奉納する一種の芸能であったと聞く。神社を守る村人のお祭りであり、の力自慢を土俵に上げて、お互いがひいきを応援することで盛り上がる。
神社によっては、賞品や景品が派手で、中には賞金も弾まれる。
民衆の数少ない楽しみのなかで、力士はともするとスター扱いを受けたこともあるとか・・・。小兵ながら大技を繰り出す「ヨシイサミ」というしこ名は結構モテたとか。
由宇町の由緒ある大将軍山のいただきにある霧峰神社。昔から大変相撲が盛んなお祭りで、近郊のセミプロ関取が、名誉と半ば賞金目当てに集まる。その大会で持って帰った「奉寄進霧峰神社相撲大関」(1925年・大正14年)という御幣のお化けのような梵天(写真)が床の間に鎮座まします。170cmはある。
父そのとき26歳。脂の乗り切った頃か。もう一つの小ぶりな梵天は、18歳の折、市内の近くの神社景品のようだ。地方相撲には横綱という地位はなく、大関が最高位であったことを、父の名誉のためにあえて一言。
それから、帝国海軍、下士官で世界を巡る遠洋航海。各地で戦勝国日本の大歓迎を受けたのが自慢話の一つだった。
たまねぎのことをオニヨン、トマトをトメートと言っていたのを子供心に覚えている。
色んな思い出の中にある父の姿。今日38回目の命日とお盆を迎えて、燦然と輝く父のいいところだけを、心穏やかに思い出してまとめてみた。合掌。
身体は決して大きくなかったが生来の負けず嫌い。腕力は他に引けをとらなかったと言う。
若き日の栄光が今も我が家の床の間に、静かに飾られている。父の匂いのする宝物である。
明治の終わりから大正、昭和の初め頃。大衆が喜ぶ芸能などというのが、特にこんな田舎ではお目にかかることは少なかった。
そこへ登場するのが、神社の縁日や何かにつけての神事で、奉納相撲が行われた。
そういった意味では、元々相撲というのは神様に奉納する一種の芸能であったと聞く。神社を守る村人のお祭りであり、の力自慢を土俵に上げて、お互いがひいきを応援することで盛り上がる。
神社によっては、賞品や景品が派手で、中には賞金も弾まれる。
民衆の数少ない楽しみのなかで、力士はともするとスター扱いを受けたこともあるとか・・・。小兵ながら大技を繰り出す「ヨシイサミ」というしこ名は結構モテたとか。
由宇町の由緒ある大将軍山のいただきにある霧峰神社。昔から大変相撲が盛んなお祭りで、近郊のセミプロ関取が、名誉と半ば賞金目当てに集まる。その大会で持って帰った「奉寄進霧峰神社相撲大関」(1925年・大正14年)という御幣のお化けのような梵天(写真)が床の間に鎮座まします。170cmはある。
父そのとき26歳。脂の乗り切った頃か。もう一つの小ぶりな梵天は、18歳の折、市内の近くの神社景品のようだ。地方相撲には横綱という地位はなく、大関が最高位であったことを、父の名誉のためにあえて一言。
それから、帝国海軍、下士官で世界を巡る遠洋航海。各地で戦勝国日本の大歓迎を受けたのが自慢話の一つだった。
たまねぎのことをオニヨン、トマトをトメートと言っていたのを子供心に覚えている。
色んな思い出の中にある父の姿。今日38回目の命日とお盆を迎えて、燦然と輝く父のいいところだけを、心穏やかに思い出してまとめてみた。合掌。