世の中には今や色んなボランティアがある。
高齢者施設に赴いて、入所者の気持ちや言いたいことをひたすら聴く「傾聴ボランティア」という団体もあることは承知している。
もちろん病気治療中の、落ち込みそうな人たちの話に耳を傾けてあげることで、患者さんの精神的負担を和らげる効果があることも承知している。
小生がそのような団体に加入しているわけではないが、今年の年末に限っては、まさに傾聴ボランティアの一員になったような、あちこちの病院や家庭訪問をして、「ひたすら聴き、時々しゃべる」、そんな日が続いている。
人の話に耳を傾けること、相手の気持ちを慮りながら相槌を打つ。そうすることが特に嫌いとは思わないから、あまり苦にもならいというところかな。
先日来、中学校時代の恩師から何度か電話を頂いた。特に具体的な話はないが、「最近体調を崩しているので、次の同窓会は案内を頂いても出席できないと思う」といった、弱々しい声でのお話。
ご無沙汰でもあり、お家もそう遠くではないので思い切って訪ねてみた。「わしゃ嬉しい、あんたの顔を見たら安心した」と涙を見せられた。御年87歳。世界中を旅行された思い出の品々を説明される様子は、まるで青春時代を振り返る現役そのもの。
それもそのはず、南極以外の世界各国を巡る旅を78回ということだった。目標の100回が達成できなくて淋しい、と。
教え子の顔が最近途絶えた淋しさが、こちらに向けられたようである。兎に角、請われるまま2時間ばかり、じっくりお話を伺ってきた。
ほかにも同じような時間を過ごす人生の大先輩が二人おられる。中には「しっかりしろよ」とは言わないが、言葉を選びながらそれに近いことを言って「喝」を入れて帰る同級生もいる。なんかしら忙しい年の瀬ではある。
6年前に見送った母の生前に、「面倒くさがらずにもっと話を聴いてやればよかったな~」という悔いの念が、気持ちの奥にこびりついているから、聴く耳が持てるようになったのだろうか。いや、元々口下手で、聴くのを得意としていたのだろうか。
何事によらず、先ずは人の話に耳を貸す。これは『言うは易し、行うは難し』。だけど、やはり必要なことだし、逆の立場になった時の有難味を思うと、小さな人助けということになるのだろうか。
こんな小さな耳だけど、この耳に向かって話をされた人が、少しでも気持ちを軽くされて新年を迎えられるとすれば良しとしよう。