「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「漱石忌」

2014年12月09日 | つれづれ噺

                       

今日12月9日は、誰もが一度は手にしたことがあるであろうあの、日本を代表する文豪「夏目漱石」の祥月命日『漱石忌』だそうな。
1867年1月生まれというから、まさに徳川幕府崩壊、というか大政奉還の前年、慶応3年という激動期に誕生したことになる。
そして明治を一気に駆け抜け、大正5年12月9日没とある。1916年のことだから、98年前の話。
その生涯は50年に満たない、まさに「人間50年 化天のうちをくらぶれば ゆめまぼろしの如くなり」と謡った織田信長に似た短い一生であったことに、今さらながら驚く。
その短い生涯の中で、数々の名作。歴史に残る小説の数々を著わした業績。おこがましくて称賛の言葉も持たない。

若いころに、いっぱしの漱石ファンを気取って書いた「吾輩は〇〇〇である」と題した随筆が、図らずも工場長表彰を受けるに至った嬉しさが、いまだに気持ちの奥の拠り所みたいに残っていて、相変わらずの駄文ではあるが、書くことをやめられない自分がいることに、厚かましさと驚きの気持ちでいる。

そして、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」などと『草枕』の冒頭フレーズを拝借して書いた『やぶにらみ随筆その2』は1977年5月号とあるから、なんと37年前の昔話である。
その当時は「坊ちゃん」「吾輩は猫である」など、名作と呼ばれる漱石集や、『雪国』・『新書太閤記』などをむさぼった記憶もある。
あーそれなのに、「その割には一向に進歩しないね~。むしろ退化だね~ 」などの厳しい声も聞こえそうであるが、弁解の余地はない。ただひたすら現実の楽しみに目を向けて、読書という楽しさを遠ざけた生き方にあるのだろう。

漱石は若いころ、正岡子規と出会ったことから、俳句にも興味を示し、多くの傑作が残されているという。
 
    累々と 徳孤ならずの 蜜柑かな  (るいるいと とくこならずの みかんかな)   漱石

道義を貫く者は孤立しない、必ず仲間がいる。という意味らしい。
論語にある「徳は孤ならず必ず隣有り」を漱石は身を以て会得していたのであろう。
漱石は自立、すなわち自己本位を重んじたが、それだけに逆に他者とのよい関係を熱望していた、と坪内稔典さんがおっしゃる。

ちょっと何かを知ったら、このように厚かましくも知ったらしい顔をしてひけらかすようでは、徳孤をなして、誰もついてはこないのだろう。 ま、それがこれまでの生き方と言ってしまえばそれまでだが・・・。

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「あれから1週間」

2014年12月06日 | つれづれ噺

                
                    早くも梅の木には、つぼみを膨らませる準備が

第3回岩国検定試験を実施してちょうど1週間が過ぎた。
村の鍛冶屋という唱歌の如く、検定が終わったら、たちまち次の仕事にうつり、“ しばしも休まず槌打つ響き・・・ ・・・”と精を出す人もいるというのに。
それに比べてこの身は、なんかしら集中力に欠ける無為な1週間を過ごしたような気がしてならない。
本当に頭の中が空っぽになったような、思考力の鈍った、我ながら不本意な1週間であった。

こんなはずじゃなかったのに、そこまで岩国検定に心血をそそいだとは言えないだろうに、と自分でも思うのに、なんやら普段通りに戻っていない気がしている。
が、兎に角終わったのだから気分を転換をして、無為な時間をを過ごしてなどいられない。明日からやり直しという思いを込めて、ホンの少々クルマで走って、いつも豊富な梅の実をくれる、カミサンの里の梅林を覗いてみた。そればかりが目的ではないが、取り敢えず、冬枯れた梅の木の今を訪ねてみたかった。

冷たい川風に晒される梅の木が、さぞかし凍えて縮かんでいるだろう・・・と思いきや、なんのなんの大違い。
確かに、一枚の葉っぱも残さず散らされて、寒さに震えているかに見える。が、遠目にはそのように映るだけのこと。
近くで観察すると、細い枝の一本一本には、早くも固くて小さいながら、真っ赤な芽を無数に付けているではないか。
この冬を耐え、やがて新春を迎えるころにはそのつぼみを大きく膨らませ、やがて大粒の実を付ける準備をしているのである。
こんな自堕落な今の自分と比較することさえおこがましいような、凛とした梅の小枝に発破をかけられた。

それにもまして、検定試験受験者から『岩国検定試験を受験した感想』として身に余る感謝の言葉を頂いた。

『ホカロンを用意されていたり、帰り際のチョコと飴に込められた細やかなお心使いなど、実行委員の方々の意気込みを感じました。・・・ ・・・ 中略
郵便屋さんから手渡しで受け取った郵便物の中に、実行委員会からの封書を見つけました。
「えっこんなに早くに」とすぐに開いてみました。
金賞の認定証が嬉しい上に、直筆のお礼の言葉をいただき更に喜びが増しました。・・・ ・・・中略
採点から認定証作成発送という一連の処理がこれほど速く進められるとは、「さすが、できる集団だな」と感じました。皆様方の
岩国検定にかける意気込みの強さを再度感じました。』
 

他にも、電話などで嬉しい言葉をたくさん頂いた。これらを励みに、年末の慌ただしさを集中力に変えることができれば幸いである。 

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「師走の風が」

2014年12月02日 | 季節の移ろい・出来事

            

いよいよ師走。気が付けば師走。あっという間にやってきた師走。
そんなこんな、色んな思いが交錯する中で迎えた師走。実感が湧かないまま早くも2日目を終えようとしている。

降る雨は時雨と呼ばれてやけに冷たい。
そんな中でも、穏やかな瀬戸の海に悠然とカモの群れは漂う。まるでわが世の春を味わっているかの如く、いさかいもなく静かに。
時折、人間が近づいたことへの警戒警報か、甲高い鳴き声を発する一羽がいる。あれは群れのリーダーの声なのだろうか。
ただ悠然と波間に身を任せているようでも、警戒心だけは怠ってはいないのだろう。

カモの群れは比較的数えやすい。たいていの場合、2羽が連れ添って漂っているから、1羽ずつ数える手間が省ける。
日本野鳥の会の皆さんのように、双眼鏡片手に、カウントケージを押すわけでもないが、ウオーキング方々砂浜を歩くときの退屈しのぎにはもってこいである。

人間から見れば、なんと寒いこの時季になんで海面なの?森の繁みの中のぬくもりはダメなの?と聞いてみたくなるが、それこそ大きなお世話ということなのだろう。かれらには、この場所が住処であり、食料も豊富な生活の場所なのである。

彼らのほうこそ我々人間に向かって、こんなことを思っているのかもしれない。
「この気忙しい師走のさなか、商売人は年末商戦に向かって大声上げようというときに、スピーカーを通して候補者や政党の名前を連呼してうるさいよな~」
「消費税は廃止して、社会保障財源は大企業から引っ張ってくるなどと、身勝手な見栄を張ったり並べたり、政権批判が全ての選挙活動であるかのごとき誹謗中傷に声を枯らしているな~」 
「現政権批判の前に、自分ならこうして社会を変えるという、具体的な政策、選挙用の票集めでない、実現可能な政策を明らかにしない、出来ない野党が目立つな~」
「新聞だって、政権批判を集約するような社もあれば、現政権支援の立場の社もあるな~」 などと。

カモはしゃべらないから静かに漂っているだけだが、あれで口が利けたら、海面はさぞかし賑やかだろうな~。
カモは、ゆったり冬の海を漂うのが日常だからいいようなものの、人間社会はそうはいかない。海の上をゆっくり漂ってもらっては困る。
しっかりした経済成長のかじ取りをする見張り番を立て暗礁に乗り上げない政治を。平和を愛する国民性を発揮して、国家を守るべき歩む道をチェックする。その上で、ゆるやかでもいい競争社会の中で、切磋琢磨して自身の生活を守る努力をする・・・。言うは易し行うは難しかな。

ゆったりのんびり、海面を漂うカモの群れが羨ましく見えることもある。

コメント (2)
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