無水鍋(その1)
テロとか無差別殺人とか、物騒な言葉など耳慣れない平和な時代であった。
職場には比較的自由に物販業者が出入りしていた。見方を変えると、それを許すおおらかな雰囲気があった。
ある日の事、私のいた保線区の事務室に変わった業者が来て、販売の許可をもらった。
許可を得て三人組の業者が長い白衣を着て販売の準備を始めた。
仕事をしながら横目で見ると、なんとガスコンロと簡単な調理台のセットを組み立てる。
そして、やおら取り出した商品は鍋である。そしてホウレン草やら、浅蜊やら食材を準備する。
昼休み時間になると、早速調理を始めた。
その鍋はアルミ合金の厚手の鍋で、鍋の内側に納まる薄い内蓋と、その上に被せる鍋と同じ材質で、
フライパン状の形をしていて取外し可能な取手が付いている。
重い上蓋でかなり密閉度が高く「無水鍋」と説明された。
水洗いしたホウレン草も、水を入れない鍋に入れしばらくするときれいな「お浸し」が出来上がる。
浅蜊も簡単に美味しそうな香りを上げる「酒蒸し」に姿を変える。
食い意地の張った私は欲しくなったが問題は値段である。私の月給の三分の一ほどもしたのである。
負けず嫌いで何でも人より先に買わなければ気の済まない先輩の事務係が「よし、買った。」第一声を上げた。
(続く)
(ある新聞に投稿している文章の連載が150回を迎えました。「面白くて、週一の発行日が楽しみ」
と、言って下さる方もおられ、そんなお話が励みで続けています。)