ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(33)

2014-01-31 23:19:06 | 生き方
娘の点滴のD剤の濃度もここ数日間に少しずつ下がってきた。
6.0から5.5、5,0、現在4.7。
ただし、下がってきても、娘の認識の程度は、あまり変わらない。
時々、自分がどこにいるのかわからなくなる。
美容院、ホテル…などと思ってしまうものだから、「財布がない」「ケータイがない」と思うことがよくある。
だが、そういう姿に直面しても、最近はわれわれ家族も、またかと思って落胆することは少なくなった。
いつか変わってくれる日があるのではないか、と思いつつ、いる。

認識の程度はあまりよくない中でも、娘らしさが出る時があり、愛おしいと思う。

例えば、病院の夕食でこんなことがある。
病院の食事だけに、あまり「おいしい!」と言えるものは出ないのだが、時にはうまいものもある。
そうすると、「これ、食べて。」と言ってくる。
自分だけが快いのではなく、周囲の人にも気持ちよくいてほしいという、娘の個性が発揮される。

先日は、私が出張の合間に30分間ほど時間を作って、昼食時間に訪ねたことがあった。
そのとき、昼食を食べながら、娘は涙をこぼし始めた。
どうしたのか、どこか悪いのか、と聞くと、「時間がないのに、会いに来てくれてうれしいけど申し訳ないと思う。」とこたえた。
そうこたえながら涙をこぼす娘を、愛おしい、と心から思った。

今日は、夕食後の歯みがき・洗顔を終えた後、立ち上がると急に動きを止め、椅子に両手をかけたまま下を向いて動かなくなった。
「おい、どうした!?」と聞くと、顔を上げた娘の目は真っ赤だった。
「悔しくてたまらない」のだと言う。
良くも悪くも行動的だった娘ゆえ、今は自分の記憶や意識を含め、すべてが思うようにならないことがたまらなくいやだと思ったのだろう。
スポーツも好きだった娘なのに、歩くのにつかまり立ちしながらなのだから、無念さはあるだろう。
悔しいだろう。
でも、悔しさを感じるということは、常人の気持ちに近いのではないか、ととらえることもできる。

病人である娘の姿にも、娘本来の言動が垣間見えるときは、とても愛おしい。
平常とは違う言動はまだまだあるけれども、娘本来の姿が見られる時がある。
今日は、「ほかの人と誰も会わないことがさびしい」と言っていた。
日頃から、たくさんの人が好きな娘である。
たくさんの人にリップサービスやら、冗談を言うのやらが好きな娘である。
日中看護師さんくらいにしか会えないのは、普段の生活からすればさびしいのだろう。
知っている人に会いたいのだろうなあ。

毎日毎日変わらぬ繰り返し。
それは、娘にも娘を見守る私たちにも同じ。
記憶が残らなかったり、物の位置が変わって見えたりする娘の大変さは、娘自身にしかわかるまい。
まだまだ現状はそんな娘だけれど、悔しさとかさびしさとかを感じて口にしている時は、普通の姿に近いように感じる。

入院以来早くも8か月が過ぎた。
明日から2月になる。
春が近い、と信じたい。
コメント
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