かつての教え子、I氏たちの年齢は、43歳。
先月、今東京に住んでいるはずのI氏からメールが入った。
正月に地元でプチ同級会をするから来てくれないかというものだった。
行動制限がなくなったとはいえ、まだ感染症禍であることから悩んだが、めったにない機会なので、感染が急拡大しなければという条件付きでOKの返事をした。
ワクチン接種から1週間後ということもあり、十分気をつけながら出席することにした。
I氏たちの代の子どもたちである彼らに関わっていたのは、もう30年を超える昔のこと。
彼らは、小学校5,6年生だった。
私がまだ33歳の頃に出会った子どもたちであった。
2年間の担任生活の間、もちろん本気になって「育」業生活に取り組んだ。
だが、それまで10年近くも教師生活を送っていたというのに、2年目の後半には、自分自身に指導力不足を痛感する日々となった。
別に子どもたちが学級崩壊状態になった訳ではない。
ただ、教師としての自分の思いが子どもたちに十分通じない、ということを感じて悩んでいたのだった。
何度同じ注意を受けても改善されないなどということがあったり、避難訓練ではいらないおしゃべりをする、真剣味がない姿を見せられたりした。
その頃の私は、当時のテレビの「金八先生」のように、熱心に働きかければ、きっと道は開けると思ってがんばっているのに、なぜ思いが伝わらない?と、思い悩むばかりだった。
あるとき、その原因は、子どもたちではなく私にあることがわかった。
私は、正論で子どもたちに相対し、自分の思いを伝えようと一生懸命になるのだが、それがよくなかったと気付けたのである。
こちらの思いは伝えようとするが、子どもたちの思いを十分に聴こうとしていなかったのである。
子どもたちの言い分に対する耳の傾け方が足りないから、教師の上からの言葉を素直に飲み込んでくれなかったのである。
一方的に教師の価値観を押し付ける指導ではなく、子ども自身がその価値観に気付くようにしていくことこそ重要だと気付いたのだ。
それ以降は、私の子どもたちへの働きかけ方も大きく変えることができた。
「育」業で本当に大切なことに、ようやく気付けたのかもしれなかった。
そう考えると、この代の子どもたちは、私の愚かさと子どもの側に立つ大切さを教えてくれた子どもたちだったと言えるのだ。
会場では、大人として充実期を迎えた12人と会うことができた。
参加を予定していたもう1人が、家庭内に感染者が出たので大事をとって当日キャンセルになったのは、今の時代を表している。
幹事を務めてくれたI氏は、この会にともに出席したもう一人と東京で飲んだ際に、小学校時代の同級会をしたいねという話になり、それを実現させようと考えたのだそうだ。
そこから、LINEを駆使して呼びかけ合い、この日の会にこぎつけたということだった。
さすが、今風だと思った。
会場も、東京とは離れているので、ネットでやっている店を探し、口コミを見るなどして決めたというあたりも、さすがであった。
席上、小6当時の野球の試合で、タッチアップを怠って先取点が取れずに負けた話や、別の先生に教わる理科の時間に手いたずらして、アルコールランプをひっくり返して火災報知機を鳴らした話など、昔の話題にも花が咲いた。
また、現在の家族の話が多くなるのも、40代前半の彼ららしい内容だった。
特に、子どもの心配をするのは、昔の彼らを知っている身としては、非常に微笑ましく思った。
30年余りたってみんな大人になり、社会人・家庭人として立派に今を生きている姿を見ることができた。
私にとって、あのころの「育」業の信条は、「自分で考え、判断して、たくましく生きていく人を育てる」ことだった。
その目指していた姿が、目の前にあった。
一人一人が輝いて見えた。
短く楽しい時間が、あっという間に過ぎた。
次の会への誘いも受けたが、そこは若い人たちに気兼ねなく過ごしてほしいから、辞去することにした。
店の外に出て、こんな時期だから一人一人と握手ではなくグータッチを交わした。
私なりの激励と別れのあいさつのつもり。
高齢者となってみると、このような会はいつまでできるか、分からないと思ったりする。
今はもう、皆さんが支える時代になっている。
これからも、がんばって生きておくれ。
皆さんの幸せをいつも祈っているからね。
先月、今東京に住んでいるはずのI氏からメールが入った。
正月に地元でプチ同級会をするから来てくれないかというものだった。
行動制限がなくなったとはいえ、まだ感染症禍であることから悩んだが、めったにない機会なので、感染が急拡大しなければという条件付きでOKの返事をした。
ワクチン接種から1週間後ということもあり、十分気をつけながら出席することにした。
I氏たちの代の子どもたちである彼らに関わっていたのは、もう30年を超える昔のこと。
彼らは、小学校5,6年生だった。
私がまだ33歳の頃に出会った子どもたちであった。
2年間の担任生活の間、もちろん本気になって「育」業生活に取り組んだ。
だが、それまで10年近くも教師生活を送っていたというのに、2年目の後半には、自分自身に指導力不足を痛感する日々となった。
別に子どもたちが学級崩壊状態になった訳ではない。
ただ、教師としての自分の思いが子どもたちに十分通じない、ということを感じて悩んでいたのだった。
何度同じ注意を受けても改善されないなどということがあったり、避難訓練ではいらないおしゃべりをする、真剣味がない姿を見せられたりした。
その頃の私は、当時のテレビの「金八先生」のように、熱心に働きかければ、きっと道は開けると思ってがんばっているのに、なぜ思いが伝わらない?と、思い悩むばかりだった。
あるとき、その原因は、子どもたちではなく私にあることがわかった。
私は、正論で子どもたちに相対し、自分の思いを伝えようと一生懸命になるのだが、それがよくなかったと気付けたのである。
こちらの思いは伝えようとするが、子どもたちの思いを十分に聴こうとしていなかったのである。
子どもたちの言い分に対する耳の傾け方が足りないから、教師の上からの言葉を素直に飲み込んでくれなかったのである。
一方的に教師の価値観を押し付ける指導ではなく、子ども自身がその価値観に気付くようにしていくことこそ重要だと気付いたのだ。
それ以降は、私の子どもたちへの働きかけ方も大きく変えることができた。
「育」業で本当に大切なことに、ようやく気付けたのかもしれなかった。
そう考えると、この代の子どもたちは、私の愚かさと子どもの側に立つ大切さを教えてくれた子どもたちだったと言えるのだ。
会場では、大人として充実期を迎えた12人と会うことができた。
参加を予定していたもう1人が、家庭内に感染者が出たので大事をとって当日キャンセルになったのは、今の時代を表している。
幹事を務めてくれたI氏は、この会にともに出席したもう一人と東京で飲んだ際に、小学校時代の同級会をしたいねという話になり、それを実現させようと考えたのだそうだ。
そこから、LINEを駆使して呼びかけ合い、この日の会にこぎつけたということだった。
さすが、今風だと思った。
会場も、東京とは離れているので、ネットでやっている店を探し、口コミを見るなどして決めたというあたりも、さすがであった。
席上、小6当時の野球の試合で、タッチアップを怠って先取点が取れずに負けた話や、別の先生に教わる理科の時間に手いたずらして、アルコールランプをひっくり返して火災報知機を鳴らした話など、昔の話題にも花が咲いた。
また、現在の家族の話が多くなるのも、40代前半の彼ららしい内容だった。
特に、子どもの心配をするのは、昔の彼らを知っている身としては、非常に微笑ましく思った。
30年余りたってみんな大人になり、社会人・家庭人として立派に今を生きている姿を見ることができた。
私にとって、あのころの「育」業の信条は、「自分で考え、判断して、たくましく生きていく人を育てる」ことだった。
その目指していた姿が、目の前にあった。
一人一人が輝いて見えた。
短く楽しい時間が、あっという間に過ぎた。
次の会への誘いも受けたが、そこは若い人たちに気兼ねなく過ごしてほしいから、辞去することにした。
店の外に出て、こんな時期だから一人一人と握手ではなくグータッチを交わした。
私なりの激励と別れのあいさつのつもり。
高齢者となってみると、このような会はいつまでできるか、分からないと思ったりする。
今はもう、皆さんが支える時代になっている。
これからも、がんばって生きておくれ。
皆さんの幸せをいつも祈っているからね。