kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

五郎丸と真田丸

2016-03-02 14:25:13 | 真田丸

 

五郎丸と真田丸?

 

丸がいっしょなだけ?

 

おなじみ、五郎丸さんのルーティン、クライマックスポーズ

 

大河ドラマ「真田丸」 で私が期待を寄せているのが忍者の登場です

 

猿飛佐助、出浦昌相(いでうらまさすけ)、服部半蔵

今はまだ活躍というには遠いのですが…

 

以前「真田丸船賃六文波枕 五」 で忍者について書かせて頂きましたが

今回はその忍者のおなじみのあのポーズについて

 

どろん!

 

忍術をかける時と五郎丸さんのポーズは同じに見えますが

あれはどんな意味を持つのか?

知りたくなりました

 

九字護身法 ( くじごしんぼう )

元は日本密教にある「大日経」の実践法のための呪文が、

陰陽道、修験道などにも伝わり、やがて

民間に簡単な形となって、広まったもので、

邪気を払うための呪術です

 

この呪文が、

臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前

( りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん )

 

この一文字ずつが神仏を意味します

例えば「臨」

 

普賢三摩耶印(ふげんさんまやいん)  仏格:毘沙門天 神格:天照皇大神

「臨」と唱え、左右の手を組み、人差し指を立てて合わせる。


『臨兵闘者皆陣烈在前』

神仏を表す9種類の印契。

 


「臨」が五郎丸さんのルーティンに近いかな?


この、手を組むことを

「印を結ぶ」

その後、「印を切る」 ことが続くのですが…

 

どちらも漢字の数だけありますが、すみません省略させて頂きます

 

忍者の場合、それが次第に簡略化された形で

「印を切る」 

この部分だけを行います

あの、どろん!の時に

 

それを、 「早九字護身法・はやくじごしんぼう」 と言います

(九字法とも)

そのポーズですが

 

 

 

右手が刀、左手は鞘(さや)を表します

まず刀は鞘に納めます

呪文を唱えながら鞘から刀を抜き、九字を切る

切る方向も決められていますね

 

鞘から抜き放たれた刀は邪悪を切り裂くのです

印を切ることによって描かれた格子模様は結界、

結界によって邪悪の侵入を防ぐ


これが忍者のポーズクライマックスでした


五郎丸さんは、もちろん忍者ではありませんが、


” 臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前 ”

りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん


” 臨める兵、闘う者、皆前列に陣取っている 

(なので、簡単にはそこから進ませないぞ) ”

という呪文を唱えるかどうかは分かりませんが、


精神を統一し

『 大丈夫だ、私なら出来る 』

と気持ちを奮い立たせておられるのでしょうか

それとも、無心に


ただ、あの時のお顔、随分と力の抜けた表情と思われませんか?

 

 

南半球、オーストラリアのレッズですか、

スーパーラグビー公式戦でも、見事決まりましたね、五郎丸さん

世界の五郎丸への道をどんどん歩んでおられます

 

ラグビー選手には、長い間待ち続けた日本のラグビー熱でしょうね

どうぞ、更に強くなって楽しませて下さいね

 

あ、忍者が隠れてしまってる?

いえいえ、「真田丸」 注目しています

これからの忍者さんの活躍、熱望しております ニンニン

 

 

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真田丸船賃六文波枕  六

2016-02-23 13:46:18 | 真田丸

 

真田丸 第七回 「奪回」

 

真田信繫(幸村)のおばあちゃんの

 

「おとりさん」

 

が気の毒です

 

 

滝川一益の人質としてお城を転々とします

 

織田信長が本能寺の変で倒れたあと、沼田城へ

 

羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦で討ち取った頃、箕輪城へ

 

上野(こうずけ)の地で北条の前に総崩れとなった一益は

 

自分の領土の伊勢に返る道のりで信濃を出るまではと

 

「とり」 を連れて、小諸城へ

 

 

なんと、昌幸は真田の村へさっさと帰り、残された信繫は

 

とりの奪回へと小諸城へ忍びこむが、信繫も捕らわれてしまった

 

移動は簡単な駕籠に乗せられ

 

沼田城箕輪城小諸城

 

「おとりさん」はこんな事になってさぞやと思うのとは裏腹に

 

武家の女性だからか、覚悟が出来てます

 

囮になっても、おとりさん

 

『 思い通りに行かぬのがこの世、望みを捨てなければなんとかなる 』

 

と逆に、信繫らを励ましました

 

現代でも、

思い通りにならない日は~あしたがんばろう~♪

と、朝が来たら教えてもらってます(^^♪

 

 

おとりさん、お風呂とか着替えとかどうしてたんだろう…

 

昔の人はすごいですね

 

 

ここに出てくる、小諸城

 

    

 

 

 

 小諸なる 古城のほとり


雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ 


緑なすはこべは 萌えず


若草も 籍(し)くによしなし


しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)


日に溶けて 淡雪流る

 

小諸城天守台跡

 

 

ここはかつて武田が守っていた

 

その時、城の縄張り(建物の配置決め)をしていたのが、あの「山本勘助」

 

NHK大河 「風林火山」 

 

疾(はや)きことの如く

徐(しず)かなることの如し

侵掠(しんりゃく)すること火の如く

動かざること山の如し


 

もう何年前になりますか

 

ずっと見てました

 

ガラケー持ってた頃でしたが、着メロは風林火山のテーマ曲を

 

長い間使ってました…

 

 

 

小諸城の懐古神社のそばに、


山本勘助が築城の時に研磨したと伝えられている


鏡石があります。



勘助は朝夕この鏡石におのれの顔を映し反省したと伝えられています

 

 

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真田丸船賃六文波枕  五

2016-02-20 18:42:10 | 真田丸

 

「真田丸」で忍者(間者)が度々出てくるようになりました

 

猿飛佐助

服部半蔵

出浦昌相(いでうらまさすけ)

 

 

猿飛佐助は、私が子供の頃、漫画を通じて知った人物です

 

 

 

猿飛佐助 (真田丸では藤井隆が演じる) は

真田家の間者として仕えた家臣です

真田十勇士の第一人者です

 

佐助は甲賀流の忍術を仙人、戸澤白雲斎から山中で学んでいる時に

真田氏に見いだされ間者として重用されました

  

 

でも、実在人物ではない

 

講談に出てくる架空の人物で、

大正3年(1914) 立川文庫が子供向けに出した本の中に

登場したのが始まりです

 

 

文庫本は比較的安く、賃金の少ない丁稚小僧さんにたちまち広がり

ベストセラーとなりました

その後も、榎本健一の演ずる喜劇として、また

織田作之助の小説にもなりました

 

 

 

鎌倉、安土桃山、江戸時代

 

全国の大名は必ず忍者を召し抱えていました

戦国時代、武家では野武士や野盗であった者を

忍者、間者として取り立てていました

 

忍者

 

密かに行動し情報を収集し、仕える主人に報告する

 

ということが役目でした

秘密諜報員ということ?

 

時代劇で、飴売りとか、何とか売りとか、

くノ一はお代官様の屋敷に女中となって入り込んだりして

身分は隠しても姿は隠さず忍び活動をする場面もよく見かけます

 

足が速い、武術に長けている、動物や植物の知識も高く、

化学的なこと、技術的なことも心得て、戦術に応用したり、

サバイバルにも役立てた、スーパーマンか、007か

とにかく身体能力が高いですよね

ライザックもへっちゃらでしょうね(^_^;)

 

天下人もこの人達の活躍なしには存在しなかったかもしれません。

 

 

忍者は時代、地方、仕える人により呼び名が様々でした

 

さかのぼること

奈良時代   伺見(うかがみ)

 

平安時代   隠忍(いんにん)

鞍馬山の天狗さんがお師匠さんだった、源義経

ご本人も隠忍だったらしい

それで、鬼の弁慶謝った~♪ のね~

 

鎌倉時代、楠正成に仕えた 奪口(だっこう)

口を奪う…情報を制する

 ではありませぬ

 

戦国時代東北  早道之者(はやみちのもの)

足が速かった

 

同じく、伊達家  黒はばき

黒い脚絆(きゃはん)をつけていたので

伊達さんのわりにはヒネリが足りませんね~

 

同じく関東

 

武田家  三ツ者(みつもの)

これはどういう意味なのか分かりません…

 

後北条  風魔

 

  草(くさ)

土地に根付き子、孫と続いて定住したから

 

 

同じく、中部

 

織田信長  饗談(きょうだん)

宴会などして、忍者を集めたスカウトみたいな

以外にも暴力的でないような

 

 

近畿  伊賀地方、甲賀地方は忍者のメッカ

伊賀忍、甲賀忍

そのものズバリですね

 

また、

 

加賀、前田家  ねずみ

百万石ですからね、

俵はゴロゴロ お米はざっくりこ ♪

ちゅうちゅうねずみさんも沢山いたことでしょうね

 

 

肥後の加藤清正  関やぶり

さすが、猛者です

 

薩摩の島津家  やまくぐり

 

ほんとに様々ですね

 

 

江戸時代になると

幕府の公設機関としての職業忍者が誕生します

「公儀隠密(こうぎおんみつ)」 全国を見回ったとされています

八代将軍・吉宗の頃に創設されたのが「御庭番(おにわばん)」です

将軍の直命を受けて隠密活動に従事した者たちです

しっかりと地位を確保していたのですね

 

関東には「〇〇破」 というのがいくつもあります

 

素破(すっぱ)  居合抜きの達人

 今の「すっぱ抜く」の語源です

 

透破(すっぱ)  変装の名人

水破(すっぱ)  水に強い忍者

 

乱破(らっぱ)  暴れん坊の忍者

 

突破(とっぱ)  見張りの目をかい潜って屋敷などへ侵入する

敵陣突破~って言いますね

 

出抜(だしぬき)  他人を欺くのが上手

今の「出し抜く」という言葉に変身したのですね

 

 

 

佐助は甲賀流の忍術を仙人、戸澤白雲斎から山中で学んでいる時に

真田氏に重用され、間者として

関ヶ原の合戦、大阪冬の陣、夏の陣とを徳川方と戦い

夏の陣で茶臼山にて死す

とされています

 

 

小学館の学習雑誌に載っていた「さるとび佐助」が大好きで

毎月楽しみにしていました

でも、漫画作家が誰だったか、覚えてないんですよね…

 

残念なり~ニンニン

 

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕 四

2016-02-15 18:54:48 | 真田丸

 

第六回 真田丸   「迷走」

 

真田家の当主、真田昌幸はどの主君の元につこうかと未だに迷っています

 

自分自身が、天下を執ろうとは思ってなかったのでしょうか? 

 

この戦国の世をどう生き残るか

 

サバイバル

 

これだったのですね

 

真田幸隆(真田信繫の祖父)が武田氏の重臣となり、幸隆死後

 

真田昌幸(信繫の父)が後を継ぎ

 

武田家滅亡のあと、迷走が始まります

 

真田昌幸は、

 

織田信長→滝川一益(織田方)→上杉景勝→北条氏政→徳川家康→上杉景勝

 

わずかな間にこれだけ揺らいでいたとは

 

忍びの猿飛佐助を使い、相手の動向を探りながら

 

身の振り方を探していたのですね

 

『朝令暮改・ちょうれいぼかい』 なる昌幸

  

(朝に出した命令を夕方にはもう改める

命令や方針が一貫せず、すぐ変わること)

 

堅物の長男の信幸や信濃の国衆の中は

こんな昌幸に怒りを覚えたことと思います

 

何度も父とぶつかる信幸(大泉洋)

家族会議もしょっちゅう

 

でも、戦国の世では相手を欺いたり、油断させることも

ひとつの兵法だったのですね

 

機を見て仕える大将を変えていくことが

真田家のサバイバル戦術だったのです

 

一方、浜松城にいた徳川家康は協力するとは口だけで、

のらりくらりとかわしながら、生き残る道を探っていた

家康のサバイバル術はこれだったのです

 

狸おやじだわ~

 

この間、信長の人質となっていた信繫の姉の「松」を

佐助が救い出す途中

追い詰められ松は

崖から琵琶湖に身を投げ行方不明となります

 

また、祖母のとりは滝川一益の人質として沼田城へ送られます

 

万策尽きて、呆然としていた昌幸ですが信繫からこんな事を告げられます

 

『 たとえ領主が変わっても信濃の景色が変わるわけではない

いつも静かに山々はそこにある

まるで、人間のいさかいを笑っているように… 

この景色が好きです

 

信濃は日本国の真ん中ですから

 

信濃に生まれたことを誇りに思います 』

 

この言葉を聞いた昌幸は、

 

『 もう、どの大名にも就かない

信濃が有れば我々は強力な大名と対等に渡り合うことが出来る 』

 

そう言って、岩櫃(いわびつ)城と沼田城を取り返し、

信濃を守り抜くことを誓うのでした

 

先日、沼田の城下町を「ブラタモリ」で見ました

 

「河岸段丘」という地の利、

 

この沼田城を奪い返せば、真田家は地位を盤石なものと出来そうです

 

来週、題は「 奪回 」

 

取り返すことは出来るのでしょうか!

 

ところで、これはチンパンジー 

 

先日天王寺動物園で写しました

 

そして、猿飛佐助 (藤井隆)

 

 

似てる?

 

佐助の出番が増えてきました

 

忍者は素破(すっぱ)、間者、忍びのこと

地域や大名によっては特殊な呼び方を使ったようです

 

素破

 

すっぱ抜かれて困ることは、みなさん、

 

ありませんよね~

 

 

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真田丸船賃六文波枕 三

2016-02-08 12:49:31 | 真田丸

 

きのうは、第五回 真田丸 「窮地」

 

 

 

本能寺の変

織田信長は49年の波乱の生涯を閉じました

 

武田氏を滅ぼしてからわずか3か月

 

 

今までのドラマでは、燃え盛る火の中、覚悟を決めた信長は

切腹…

 

そんなシーンが多かったのですが、「真田丸」では

鎧兜だけが燃えている、そういう風に見えました

 

脚本家の三谷幸喜さんは、とにかく史実により近いドラマに

と、考えられたそうです

 

鎧兜だけが、火中に尽きる

そんな風にもとれる、

すなわち、

信長は本能寺では死んでない?

という一縷(いちる)の望みを繋いでくれる、

信長ファンの私としては、うれしかった

 

それにしても、

もう少し「真田丸」の中に存在しててほしかったです

 

本能寺の変を起こした明智光秀

エッ?と思う方が演じておられましたしたね

 

岩下尚史さん

この方作家さんなのですね

おじさん? お姉さん?

 

 

話は少しさかのぼりますが

 

甲斐の名門、武田氏の命運が尽き

ひとつの時代の終焉となった時、

真田昌幸は

ちょっとズルいんやないの?

と思えるような策略を使い織田信長の家来となっています

 

そして、またもや!

信長について行こうと思った矢先の本能寺の変

 

もうどうしたらいいの、という心境だったでしょうね

 

窮地に陥った真田昌幸はまたもちょっとズルをいたします

でも、戦国の世にあってやるかやられるか

 

これは策略という正攻法だったのです、きっと

 

使者が届けた光秀の書状は昌幸はじめ小県(ちいさがた)に届けるものでした

光秀は味方に付くよう説得する内容をしたためていたのですが

 

昌幸は書状を奪い燃やしてしまい、信長の死を伏せたのでした

 

北の上杉景勝、東の北条氏政、南の徳川家康、

信長の死が伝わればいっせいに立ち上がるだろうと、

真田昌幸は不安で不安で、迷いに迷っていたのです

 

 

本能寺の変で信長もその嫡男の信忠も討たれたその頃

徳川家康は堺から京へ向かう途中でした

 

こちらにも攻めてくると考えた家康は三河に戻ろうとします

そして、光秀が一番攻めて来そうにないだろうと

「 伊賀越え 」を逃げ道に選んだのです

伊賀越えは山深く、落人狩りに会わないとも限らない

 

そんな道ですが、家康一行は

伊賀出身の「 服部半蔵 」の案内により

山中の断崖絶壁を転げ落ちるように越えたり

落ち武者狩りに会いながらも、三河へと帰ったのでした

 

徳川家康と言えば、今までのドラマでは

いつも、どんと構えたしたたかな大将という感じでしたが

 

ここでも三谷幸喜ワールドとでも言いましょうか?

 

 

 

  

 

 

こういう表情

「 内野聖陽 」さん、いい俳優さんですね

臆病者、家康を演じておられます

 

ここ数年の間に」、こんな肖像画を初めて見ました 

 

「徳川家康・肖像画」の画像検索結果

 

「三方ケ原の戦いの後の徳川家康の肖像画」

 

三方ヶ原で武田信玄と戦って敗北した直後に、

家康自らが絵師に描かせた肖像画です

生涯この肖像を手元に置いて自分への戒めへとしたそうです 


私の知らない家康さんの一面がこの後、

どんどん出てきそうな、

楽しみです


さて、迷走中の真田丸、どこへ向かうのか

いずれにしても、

 歴史は大きく変わろうとしています

 

 

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真田丸船賃六文波枕 二

2016-02-04 13:14:49 | 真田丸

 

 ドラマは進んで、すでに四回

 

こうして見てきて気付いたのが、副題

一回  船出

 

二回  決断

 

三回  策略

 

四回  挑戦

 

そして次回は 窮地

 

これは脚本家「三谷幸喜」さんの仕立てと思われます

三谷さん、もしかして几帳面?

私もそろえたい気持ちが湧くときがありますが

逆にバランスを崩したいと考える時もあります

たとえば洋服を組み合わせ着る時など。

あ、私の事はどうでもいいんでした

 

 

この副タイトルは、簡潔で分かり易く好きです

ふたつの漢字からその回のドラマの主軸が

ストレートに来ます

 

分かり易いと言えば、ナレーション

NHKのアナウンサー有働由美子さん

素敵な声です

ぐっと抑えたような、それでいて明るい

とにかく明瞭なナレーションが分かり易い

少し耳の遠くなった年寄りにも聞き取りやすくありがたい♪

 

その時代背景の説明は、こんな言葉から始まりました

 

 

”  天正十年 二月。

甲斐の名門、

武田家は最大の危機を迎えている。

信玄の死から九年。 

遂に織田信長の侵攻を許した。

その先鋒が迫る山中を、

武田に仕える一人の若者が進んでいた。 ”

 

 

 

 

 

 

 

 武田信玄亡き後の甲斐の国主、

武田勝頼は、真田昌幸の岩櫃城へという言葉に迷いながらも

岩殿城へ向かったが、小山田信茂に行く手をはばまれた

もはや勝頼一行に戻るところも進むところもなかった

甲斐の名門、武田氏の命運が尽きようとしていた

やがて戦国大名たちがしのぎを削る動乱の世へと動いて行った

 

”  戦国という大海原に、

 

一隻の小舟が漕ぎだした。

 

舟の名前は 「真田丸」 

 

波乱万丈の船出である  ”

 

 

有働アナウンサーの小気味よい声が

自ずと期待感を沸かせます。

 

 

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真田丸船賃六文波枕(さなだまるふなちんろくもんなみまくら)

2016-02-02 12:06:10 | 真田丸

《 船出 》 

NHK大河ドラマ 「真田丸」

 

 まずまずの船出をしたようです

 

 

真田丸船賃六文波枕

 

船酔い覚悟の戦国航路

 

綴っていこうと思います

 

皆様、 既読スルーも大歓迎

 

どうぞよろしくお願い申します

 

   

   

 

さて、

気になるのが六文銭

  

六文銭は、真田家の家紋として、旗印として使われました

 

 

 

なぜ六文銭

 

六つの銭は六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の

衆生(しゅじょう・人間やいっさいの生き物)を救うために渡る

三途の川の渡船料を意味するという

六文銭は戦さの時衣類の裾に縫い付けて出陣したようです

 

いつでも死ぬ覚悟を持って戦さに臨む、

武士の志の表われでしょうか

 

 

真田昌幸、信繁親子の時代、

室町時代以降江戸時代以前として…

永楽通宝が出回っていたので、2人は

永楽通宝を身に付け、戦場に臨んだかもしれません

 

 

「永楽通宝」の画像検索結果

 

 

江戸時代以降の一文銭 「寛永通宝」

「寛永通宝 価値」の画像検索結果

 

これは江戸時代になってからの一文銭、

真田信繁(雪村)も見ていないのでは

 

この真田家の紋所、戦さ以外ではこんな家紋を用いました

 

「真田家 家紋」の画像検索結果

結び雁金(かりがね) は平和な時に使われた

 

 

「真田家 家紋」の画像検索結果

州浜 (すはま) はめでたい時に

 

さて真田丸、どの紋所がどのくらい目に入って参りましょうか?

 

 

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