『フランスにはシャンソン、イタリアにはカンツォーネ、アルゼンチンならタンゴ、
ブラジルならサンバという様にみんな知っていますが、
日本は?と聞くと歌謡曲という答えが返ってくるのは悲しいことです。』
と、この会の代表の方が挨拶の中でおっしゃいました。
なるほど!
知り合いが民謡をやっていて7日、民謡祭りに出るというので行ってきました。
ライブで民謡を聞くのは初めて、やっぱり音楽は生が一番!!
♪ 安里屋ユンタ↑
三味線弾いています。5才頃から始めて楽譜は読めないけど
おばあちゃんを見て、目と耳で覚えたそうです。
♪ 銭太鼓↑↓
知り合いの違う一面を見ました。
♪ 阿波踊り↑
♪ 安来節(どじょうすくい)↑
民謡プロの方々、花笠音頭でフィナーレ↑
民謡のあの、大きくコーンッ!と響かせる声は聞いていてスカッとしました。
また中には、優しくてなんかほっこりするような癒し系の声の方もおられ、
いい気分で聞かせてもらいました。
で、……知り合いの歌声なんですが実は私、仕事が終わってから
駆けつけたのですが、残念ながら出番には間に合わず聞けませんでした(>_<)
でも、銭太鼓の踊りのバトントワリングみたいのや、三味線を弾く姿は
見る事が出来、会の後で鳥料理のお店で打ち上げをして、別れました。
かなり久しぶりの遠出と新しい体験で私には充実の一日でした (^^♪
やはり、”継続は力なり” ですね~ ワタシニハデキナイ (T_T)
2月2日、大阪梅田 「HEP FIVE」 8階 「HEP HALL」に
個展 「忌野清志郎の世界」 を見てきました。
チケットと入場記念に頂いた
バッジです。
すべて、ご本人の絵画です。
これから下はファンクラブ誌の表紙の写真です。
場外に展示してありました。 ↓
パンフレットです。 ↓
パンフレットです。 ↓
グッズ売り場で買ったファイルです。ご本人の絵です。↓
真っ赤な観覧車のあるビルで有名ですが、ビル内から
写しました。
乗りたかったけど、誰も乗ってないのであきらめました。(T_T) ↓
沢山の絵がありました。(場内撮影禁止でした)
絵本も出しておられたので、その原画があり、
絵本を持っている職場の同僚いわく、
『原画は迫力がある!』
いつも着ておられたあのカラフルな衣装を彷彿とさせる
カラフルな絵が多かったです。
あ、その衣装も何点か展示してありました。
ブーツもありましたが、ピンクや黄色のショートブーツに、
可愛いアップリケをしたもので、自作で世界にこれひとつだけ、
というものなんでしょうね。
また、娘さんが2人おられ、何枚か幼い頃の娘さんを描いたものがありました。
自転車のツーリングが好きだったとの事です。
愛用の自転車とヘルメットもありました。
そこに展示してあった自転車は、一度無くなったことがあり、
TVのニュースで大々的に報じられ、その次の日に戻った…。
というエピソードがあったものです。
サドルの下にはお守りが3つ程ぶらさげてありました。
所々キズのついた自転車とヘルメットを見て、
何とも言えない気分になりました。
大きな画面で、ライブのビデオが流されていました。
いすに座って5~6曲聞けました。
展示されていた衣装を着てのもありました。
お葬式にも参列した大ファンの同僚ですが、感無量だったようです…。
とても見ごたえのある素晴らしい個展でした。
松本市内をブラブラ歩いた時、こんな所へも行きました。
重要文化財 『 旧開智学校 』
1873年(明治6年) 開校
校舎は新築された明治9年から昭和38年まで90年間使われ、
我国で最も古い小学校のひとつです。
和、洋の融合した「擬洋風建築」 の校舎で、文明開化を象徴する、
代表的な建物です。
建造に当たり、なんと驚くことに、巨額な工事費のおよそ7割が、
松本町全住民の寄付によるものだそうです。
学校とは思えないほどの美しい装飾などがあり、また、
昔の教科書なども展示してありました。(わたくし、何故か教科書には興味が
わかず、サラ~ッと流しました(^_^;) 思えば昔からそうでした )
『講堂』 です。天井近くのステンドグラスの窓、シャンデリア、
普通の窓も爽やかな色彩です。
床は和風で、網代編みの敷物が敷いてあります。
おそらく、ここに正座して先生のお話を聞いたのでしょうね。
あちこちの扉も装飾が施され、きれいでした。
扉には彫刻のある『桟唐戸(さんからど)』 もあります。
また、階段も学校とは思えないようなタイプのもありました。
教室の窓から、紅葉した木々が見えます。
当時の子供たちもこんな感じで勉強してたのでしょうか?
ま、私よりはずっと真剣に学んでいた事と思います。 (^_^;)
今、この隣には旧開智学校と似た建物の小学校があり、
名前も「開智小学校」 でした。(左奥が旧開智小学校です)
私の通った小学校(京都市内)は、少子化のあおりを受け児童が少なく
何校かが合併して、元の名前は無くなってしまいました。
ただ、今も同じ場所に同じ建物が少し残っているのが幸せです。
久々に訪れてみたくなりました。
先日、デパートで開かれていました。
受賞作品他、様々な老舗が保存されていた年代物の前垂れも同時に展示されていました。
まずは、大賞を獲得した2点です。
このピンクの作品、作者は女性です (^_^;)
他に老舗から提供されたものなどが、
そっと、触れてみますと昔の前垂れは、
洗い込んで柔らかくなってはいますが、
元はざっくりとした厚手の生地だったことが分かり、
随分丈夫な前垂れだったと想像できます。
そして、染め抜きですので裏までしっかりと
染まっています。
最近のは、キメは細かいものの薄くてペラペラした生地で
耐久性には欠けるなと思いました。
模様は機械でシャッと、プリントしただけのもので、
裏側は生地の色のままです。
どんなものにも、言えると思うのですが、
やはり、昔の物は、作り方が丁寧で、
その物を使う時の目的をしっかり果たしているなと思いました。
古くなったといってすぐに捨ててしまいがちですが、
すぐに新しいものに買い替えたりしないで、
古い物も、手直ししながら、使い続けることは大切であると
思いませんか?
エッ? 『そりゃ自己弁護でしょ!』 ってですか~?
……
……
……
そうとも言います (ーー;)
by nendaimono
11月8日の夕霧祭で太夫道中をされた太夫さんです。
お名前が分からず、すみません。
前で結んだ帯は、「心」という形に結ばれています。
「太夫」 とは正五位(しょうごい)の位を受け、帝とも謁見する事ができました。
遊宴の席で接待をする女性の最高の位だったのです。
そのために、花街に入ると歌舞音曲の芸、お茶お花、
和歌、俳諧などの教養を身に付けなければなりませんでした。
ですので、自ずと、とても厳しい修行を積むことになるのです。
禿(かむろ) 7~8才で太夫について、芸事の修行をする童女です。
花街での宴席でも2人、太夫さんに付いています。
修行の中には、太夫の身の回りのお世話をすることもあります。
小さな子供には、辛いこともあったのでしょうね。
今、「島原」 には、「角屋(すみや)」と、「輪違屋(わちがいや)」
の2つが残っています。
「角屋」 は博物館のように中を見ることが出来ます。
(京都定期観光バスが、夜の観光としてコースに入れる時があります。)
「輪違屋」 には入れません。現在も営業をしておられます。
昔、江戸の「吉原」 京都の「島原」 には、違う点がいくつかあったそうです。
島原は、「花街」 「太夫」。 吉原は「遊郭」 「花魁」。
という言葉で表したそうです。
島原は、一般の女性でも出入りの出来る様になっていたそうです。
吉原は、門で閉ざされ遊女たちが逃げるのを防いでいたので、
逃げるため、火を着けることも多く火事がよく起きたそうです。
角屋に定期観光コースで行きますと、「かしの式」
が、見れます。
「かしの式」 とは、云わばお客様と太夫さんのお見合いで、
お客さんが、遊ぶ太夫さんを決めますが、決めるまで何人でも
呼べたそうです。
建物も、なかなか珍しい雰囲気を持っていて、一見の価値があると思います。
TRIGSAW(トゥリグソー) 多重層木製パズルです。
難しくて、何年かほったらかしてました。
家中の片付け(散らかしてるように見えます)をしていて、あっちこっち、引っかきまわしていたら、押し入れから、出ました。
パズル作りのマーティン・スミスという人の作です。
☆ひと固まりの木を刻んでいる。木は紫檀。
このクジラのピースは、
上層: 21ピース
2層: 20ピース
3層: 21ピース
下層: 20ピース
の、合計82ピースから出来ています。
随分前ですが、これをお店で見た時、その瞬間、ほしくてたまらなくなりました。
パズルにこの値段は…(>_<)、という感じでしたが、負けました。
たぶん、パズルにチャレンジするというよりも、この見た目の木のぬくもりや、
大好きなクジラの形というあたりから、
我慢できなかったのです。
持っているだけで、うれしくなります。
組み立ては、段ごとに平らなピースでなく、上下もデコボコと、パズルになっていて、なかなか、組めません(T_T)
そうそう、中から、こんなピースが出てきました。
小さな人形がありました。そして、
名前が付いています。
ヨナ(JONAH)
ヨナは旧約聖書に出てくるそうです。
キリストに逆らい、逃亡するため船に乗り込みます。
でも、キリストが大風を海に向かって放ち、海は荒れ、
ヨナ達の船に危険が迫ります。
『私を海に放り込んでください。』 とヨナがいい、
そうすると、海は静まりました。
海に放り込まれたヨナは、クジラに飲み込まれますが、
三日三晩クジラのおなかにいた後、陸地に吐き出され、
ヨナは救われます。」
さて、またまたおなかの中に閉じ込めることになりますが、
パズルを完成させないといけませんが、
やっぱり~、これ、難しすぎます(>_<)
織田信長が「天下布武」の夢を描いた安土城跡のある滋賀県安土町。
来年3月の合併で消える事になりました。
合併後の自治体名は、豊臣家にゆかりの深い「近江八幡市」と変わります。
信長が築いた安土城は初めて天守閣を設けたお城で、その後の城のお手本となりました。
信長ゆかりの地「安土」は、16世紀末、日本を訪れたポルトガル宣教師のルイス・フロイスが著した「イエズス会年報」の中でも 「ANZUCHI」 と紹介し、中世ヨーロッパにも伝えられた土地なのです。
一方、「近江八幡市」は秀吉のおい、秀次が築いた城下町です。
合併に伴う名前を巡り、戦乱?7年。
最終的に、安土町側が妥協して、近江八幡市となり、安土の名は消える事となりました。
……
今、安土町は、北西の安土山に安土城跡があり、そこから見下ろす所に、「安土城考古博物館」「安土城天守信長の館」「セミナリヨ跡」 があります。(セミナリヨは、日本初のキリシタン神学校)
信長の町「安土」 この名が消えゆくなんて、それでいいのでしょうか?