kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

京都御所

2017-11-16 01:44:45 | 散策

 

 

久しぶりの京都御所は、何となくしみじみしました

 

門をくぐりますと、

 

 

御所の東に、大文字山が見えます

 

まずまずのお天気で、紅葉は…

  

 

 

 

桜もみじでしょうか

 

春、秋の一般公開か予約でないとみることが出来なかった御所の中も、

いつでも見れる様になり、案内の方が付いてくれるし有り難いです♪

 

 紫宸殿

これ以上は近づけません

回廊の修理が行われていました

 

 

建春門

 

 清涼殿

平安時代中期、天皇の住居として、また儀式の場として使われ、

天正18年(1590)からは、儀式の際に使われるようになった

安政2年の造営ですが、平安時代中期の様式が用いられています

 

清涼殿

 

清涼殿

 

御池庭(オイケニワ)

 

 

蹴鞠の庭

 

御学問所

和歌の会などが行われます

慶応3年(1867)明治天皇が、ここで王政復古の大号令を発せられました

 

 

御常御殿

天皇の休まれる御寝の間など15室あり、すべて畳敷きです

 

 

御所の主だった建物の並ぶ所から出ますと、広い空間があります

ここから御所の外に出ます

 

 

 

 

 

 

 

 花梨?

 

 

 

西園寺邸跡

京都御苑にある公家屋敷跡のひとつ

琵琶の宗家です

江戸時代から東京に移るまでの住まいでした

 

 

 

 

皇宮警察の消防車

 

蛤御門

禁門の変のあった所です

ある時、火災でこの扉が開けられました

それまで、ほぼ開かずの扉だったのが、火災で開いたもので

京都の人は「焼けて口開く蛤御門」と言ったことから、

元は「新在家御門・シンザイケゴモン」でしが、蛤御門と呼ぶようになったのでした。

 

鉄の扉に、未だ弾痕が見られます

 

これだけ見ても、まだ時間があり希望するものだけで

といっても14人になりましたが、このあと、

迎賓館を見学に行きました

 

 

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護王神社

2017-11-15 17:42:38 | 散策

 

 

先日の、カルチャークラブですが、

 

組ひも館を出て近くの護王神社を参拝しました

 

メンバーの中の数人が、ここへ一度行きたかった~と喜んでいました♪

 

当初のスケデュールに、ここは入っていなかったのですが、

 

思いのほか、組ひもが早く済んだので、急きょ行くことになりました

 

 

 

 

護王神社は、はじめ洛西の高雄神護寺の境内にありました

和気清麻呂の霊社として祀られていましたが、

創建の年は伝わっていません


 

明治19年(1886)

明治天皇の勅命により、神護寺から京都御所蛤御門前に

祀られることになりました

 

ここは、狛犬でなく「狛いのしし」です

 

 

 

分かりにくいですが、下の写真、

拝殿の前に雌雄一対の狛いのししがおります

 

 

 

なぜ、いのしし神社なのか…

 

奈良時代の末、法皇となって権勢をふるっていた弓削道鏡(ユゲノドウキョウ)は

天皇の位を我がものにしようと、

宇佐八幡の神から、自分が皇位につくことが天下泰平への道との

お告げがあったと、嘘をつきました

和気清麻呂は天皇からこのことを確かめるよう命を受け宇佐八幡に行きます

道鏡の話は嘘と分かり、都に帰り天皇に報告し道鏡の野望を暴きます

 

ところが、この事で道鏡は 清麻呂を大隅の国(鹿児島県)に追いやり、

その道中、道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られます

 

一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、

300頭ものいのししが現れ、輿の周りを護りながら

10里(約40km)の道を案内したあと、どこかへ消えました

その時なぜか、清麻呂の足の痛みが治っていたのです

 

その後、称徳天皇が崩御すると道鏡は失脚し、清麻呂は呼び戻されます

 

この様な和気清麻呂をいのししが守ったという話が代々伝わり、

護王神社のシンボルとなっているそうです

また、清麻呂の足が癒えた話から、足腰の健康にご利益があると

信じられています

 

そして、清麻呂の姉、和気広虫姫(ワケノヒロムシヒメ)も御祭神として祀られています

この方は、宮中に仕え天皇からの信頼も篤く、後に孤児院を初めて建てました

 

護王神社に来られた折には、外周りの塀に架けられた、

絵巻のようなパネルを見て、物語を楽しんで下さい♪

 

北野天満宮に祀られている菅原道真と似たところのある和気清麻呂

二人とも宮中に仕え、その才能を妬む者に謀られ

波乱万丈の生涯を送ったのですね

二人とも、舞台は京都と九州

動物に護られところも…似てますね♪

 

お参りを済ませ、近くのレストランへ

ちょっと罰当たりかも…牛肉を頂きました(^_^;)

 

 

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新しく出来た広場

2017-09-21 16:49:12 | 散策

 

 

朝日がまぶしい

 

朝から風もなくお天気もよさそうで、今日は朝ゆっくり出来るので

 

意を決して?、ウォーキングに出ました

 

最近できたばかりの、広場へ

 

 

旧草津川(天井川)を整地して、遊歩道、ちょっとしたトレーニングスペース、

レストラン、花畑、ステージ、草津市もがんばりましたので、

私もがんばって歩こう!

 

 

レストランは、ピザ、パスタはじめいろいろなランチが

夜もOKですよ、夜は行ったことないですが…

他にももう一軒レストランと、ホットヨガの施設が

あと、公共の集会所みたいなのが、借りれるのかな?

 

 

秋の花が、たくさん咲いていました

花壇に植えたもの、以前から河原に自生していたもの、秋ですね~

 

  

 

撫子?

 

 

もう終わりかけているのですが、斑入りの桔梗は初めてだったので

 

 

 

これは、葛の花ですか? 萩ではないですね?

 

 

 

この辺りは、旧草津宿で、本陣や脇本陣が残っています

特に本陣は、当時のままの姿です♪

 

草津宿本陣

 

 草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ

明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。

 

江戸時代に泊まった大名や、天皇家の方の記録も残っていますし

当時の道具や、昔ながらの建物の状態が見学できます

 

 

 

脇本陣跡は今、ベーカリー&カフェです

昔の建物で、のんびり出来ます♪

 

 

 

三度飛脚とは江戸時代に、月三度定期的に江戸と京都・大坂との間を往来した飛脚


現在は、礎石だけが残っています

 

 

 

中山道と東海道の追分

 

 

 

 

 旧草津川をくぐるトンネル「マンポ」です

明治の文明開化が進んだ頃、人力車や馬車が通行するために

天井川に隋道が掘られ、当初はレンガ造りでアーチ型でした。

 

ここが、追分でして、

トンネルの方角が、中山道です

 

 

 みぎ 東海道 いせみち 左 中山道 美のぢ

 

ここから篤姫は東海道を、和宮は中山道を進んで江戸へ嫁ぎました。

 

 

 高札場

この後ろの石垣を登ると、旧草津川跡地広場です

 

 

土手にも、道標が残っています 

 

 

追分の写真は、以前に撮りました

 

お花を撮りながら、行きは歩いて、帰りはスロージョギングで、45分間

 

久しぶりに、気持ちよかったです

 

 

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エキスポシティ

2017-07-09 18:05:47 | 散策

 

 

エキスポシティは、 

万博公園あとの大型複合施設です

少しブラブラしました

 

レストランに、ショップ、映画、水族館、観覧車、キャラクター館、

英語を学べるところまで、いっぱいありますが、

 

とりあえず、水族館らしきところへ

 

「NIFREL・ニフレル」

 

魚、鳥、動物が居まして、それらにふれることが出来ます

 

…にふれる…からの、ニフレルのようです

 

手の届く所にいるので、動物嫌いな方にはちょっと…

 

 

クラゲ、本物ですよ

 

 

カクレクマノミ

 

 

ナンヨウハギ

 

 

 

アカシマシラヒゲエビ

 

鉄砲魚

一昔前、よくテレビや雑誌で見ました

 

 

シマフグ?

 

 

 裏返ってるカブトガニ

 

 

ダイオウグソクムシ

 

ダイオウグソクムシと機動戦士ガンダムの「ザク」は顔が似てるような…

 

エキスポで、「ガンダム&ザク」がニフレルの近くに立っていました

 

 

4mくらいあるのかな?

 

「機動戦士ガンダム」は2019.4.9で、第1作の放送開始から40周年を迎えます

右下にある電光掲示板はそれをカウントダウンしています

 

 

オウムガイ

睨んでる…

 

ポルカドット・スティングレイ

 

アマゾン川にいるそうで、 尻尾には毒のトゲを持ち、これで身を守ります

しばらく水槽に向かうように動いていたのですが、突然、

横になってじっとしてしまいました。

すねたのか、疲れたのか、甘えだしたのか?

可笑しかった♪

何してんでしょうね(^^♪ 

   

 

これは?カサゴの仲間だったと思うのですが…ボロカサゴ?

大の字になって立ちはだかってます

怒ってますねきっと

タヒチアンダンスしてるようにも見える?

 

 

 ハナミノカサゴ

 

へコアユ (頭が下です)

敵に襲われると、横になって普通に泳いで逃げます

 

 

 

水族館だけ? と思っていると、

 

 

 ホワイトタイガー

 

飼育員さんが、上の方でえさを準備し始めています、見てますね~

 

 

 頭上の梯子をゆっくり歩いてえさに近よっていきます

 

 

飼育員さんは、わざと食べにくい様に餌を仕掛けてました

ロープに引っ掛けて、吊るして、ブラ~ンブラ~ンと 

運動不足にならないようにということもあるようです

 

 

しばらくうろうろして、ようやくお肉に飛びつき捕獲しました

 

一瞬で食べてしまいましたけどね(^_^;)

 

さすがに、ホワイトタイガーには直接触れることは出来ません

 

ギニアエボシドリ

 

 

 

扇バト

この鳥は、鳩の仲間ですって! 

 

ペリカン

大きいんですよ、向かって来ないか心配でした(・。・; 

 

大型の鳥が、けっこう怖かったです

 

1970年の大阪万国博覧会は、関西人としては

人生の中でも大きなイベントでした

3回行きました(^_^;)

 

済んでしまえば、取り壊されるということが寂しいなと思いました

 

当時のままなのは、太陽の塔と、日本庭園くらいでしょうか

 

千里ニュータウン、という大きな住宅地が同時に出来てましたね

あの頃、だだっ広い土地に、どんどん団地が出来て行く様子が

テレビでよく報道されていましたが、すごかったなあ~

 

あれもこれも、遠い青春の一コマですね…

 

 

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万博公園の日本庭園

2017-07-09 14:17:22 | 散策

 

先日行きました、万博公園内の日本庭園です

 

ここは、万博跡地でその当時のままに残っている所です

 

時間がないけれど、菖蒲園だけは見たいと、その場所に急ぎました

 

 

4つの時代の池が有るらしいのですが、見れたのはこれだけ

 一番、現代に近い様式の庭です

 

 

 

下の段が右にずれてますが、これが、アンバランスの美、

だそうです

 

菖蒲のいい時期に来れたようです♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大輪の菖蒲が咲いてました

 

花の名前やその系統が書いてあったのですが、記録できなくて

 

 

思いがけず、見れたのが、蓮や水蓮です

 

太古の蓮の種の化石から発芽したあの、≪大賀蓮≫があるとか、

 

架け橋からは遠く、なんとか写りますようにと、ズーム

 

大賀蓮

 

葉まで瑞々しい感じです

 

他にも

 

 

 

 

  

 

 全体的に少し時期が早かったようです

 

 

 

園内は広いので、こんな乗り物も走っていました

 

機関車みたいなバスです

 

乗りたいなとも思ったのですが、今頃乗っても中途半端ですし、

 

歩いてみんなと落ち合う場所に急ぎました

 

もうちょっと時間があったら、日本庭園の案内もしっかり聞いたりしたのですけどね~

 

残念

 

 

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高野山

2017-06-09 14:41:35 | 散策

 

 

 

 

ここは、高野山の奥の院です

 

雨の杉木立の中を歩いてきました

 

参道の際まで、千年の老杉がたくさんあり、

比叡山や、永平寺と同じように昼なお暗い霊地ですが、少し違う雰囲気が…

 

 

 雨のしずくが、レンズについてました(^_^;)

 

ここ、高野山は紀伊山脈の山並みに囲まれた海抜900m、南北3kmの

山岳平原です

「山岳平原」 私は初めて聞きました

八葉の蓮華のような峰ゝに囲まれた聖地と言われています

 

「八葉の蓮華」 とは、

花弁が8枚ある蓮華

” 真言密教などでは「胎蔵界曼荼羅」(絵図)の中央に描き、

中央に大日如来、八葉に4人の仏陀と4人の菩薩を配する ” 

と、あります

 

 

弘仁7年(816) 弘法大師は真言密教を広める根本道場をつくるため、

入定留身(ニュウジョウルシン)し、高野の地に留まり、永遠に祈り、

深い瞑想に入る

こうして、

”奥の院に生き続け、世の中の平和と幸福を願っている”

という大師信仰が生まれた、と言われています

 

奥の院には弘法大師の御廟所があり、 

御廟所への道には、それはびっくりするほどの

名だたる方々の墓碑や慰霊碑、祈念碑がずら~っと並んでいました

 

杉木立や苔むした辺り一帯にある墓碑などは20万基を超えるとか

 

確かに、次から次へと驚くばかりでした

 

その一部を挙げてみたいと思います。

申し訳ありませんが順不同、敬称略で、行きます!

 

 

司馬遼太郎文学碑  熊谷直実・平敦盛供養塔  加賀前田家

薩摩島津家  江崎グリコ(株)  八代将軍吉宗公  満州高野開拓団犠牲者の碑

紀州初代藩主  有馬家(有馬記念の…)  山口毛利家  肥前鍋島家

武田信玄・武田勝頼  上杉謙信霊廟  淀殿・豊臣秀頼  阿波徳島蜂須賀小六

伊達正宗  小早川隆景  井伊掃部頭(カモンノカミ)直弼  土佐高知山内家

スバル興業(株)  石田三成  明智光秀  本田忠勝  初代市川團十郎

住友本家  小林製薬  森下仁丹有縁物故者供養塔  パナソニック  久保田鉄工 

 

高麗陣敵味方戦死者供養碑

(豊臣秀吉による朝鮮出兵で亡くなった敵味方の霊を祀ったとされる供養碑

薩摩の島津義弘・忠恒父子が建立、 その後、

明治時代にこの供養碑の精神は赤十字の精神と合致するということで外国で有名になった)

 

前田利家とまつの墓  安芸浅野家  親鸞墓所  千姫供養塔

京極高次  浅井長政  法然上人供養塔  豊臣家  織田信長

浅野内匠頭・赤穂四十七士   

 

こんな感じです。

戦国時代の有名な武将がいっぱい祀られています

 

 

新明和工業慰霊碑

ロケットで有名な会社なのですね、シランカッタ

 

 

 

日本しろあり対策協会

人間生活と相容れないために駆除されたシロアリの供養のため建立されたそうです

その後、シロアリ防除に携わってきた功労者(しろあり関係物故者)も合祀されているとか…アリィ?

 

 

(株)ヤクルト

「ラクトバチルスカゼイ・シロタ株」

昔、一生懸命覚えた名前(^^♪

 

 

 

日産自動車物故従業員慰霊碑

 

 

 

福助(株)

「感謝の碑」と呼んでおられるそうで、創業以来のご縁の有った方々に感謝をこめて

建立されたとか

足袋から始まった会社でしたよネ

 

 

 

花菱アチャコの句碑と落書き塚

このふたつに関連性はないそうです

俳句もなんて書いてあるのか分からなくて…

 

 

松尾芭蕉の句碑

 

ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

(笈の小文)

句碑には、

”はせを翁 父母のしきりに恋ひし雉子の声”

と、池大雅の文字が刻まれています 

 


『 高野山は、宗旨宗派問わずの天下の霊場です 』


確かに、そういうことですね…



 他にも

東日本大震災物故者慰霊碑  阪神淡路大震災物故者慰霊碑

 

また、

第二次世界大戦の戦死者慰霊の「英霊殿」もありました

 

最近、第3次世界大戦が起きるかもという声もあったりしますが

有ってはいけないことと思います

 

 

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飛鳥路~飛鳥大仏

2017-01-31 14:40:08 | 散策

 

 

 

昨年の秋の終わりごろ、明日香村に行った時の写真です。

 

飛鳥寺の飛鳥大仏です。(銅造釈迦如来坐像・国宝)

  

あまり見かけないお顔の大仏さんですが、温かみがあり、身近に感じました。

 

実は、損傷が激しくて、当時のままの部分は顔の一部と指三本だけだとか。

 

 

 

神々の国、日本に仏教が伝えられたのは、

 

538年、百済の聖明王からとする説が有力です。

 

日本古来の神々を守ろうとする豪族の物部氏と仏教を受け入れようとする蘇我氏の間で

 

争いがあり、蘇我氏の勝利で仏教受け入れが整いました。

 

 

蘇我馬子は、推古天皇4年(596) 飛鳥寺を創建しました。

 

このお寺が日本初のお寺です。

 

お寺の名前には変遷があり、法興寺、元興寺、飛鳥寺(安居院)と変わっています。

 

創建時は金堂,講堂、回廊等を配した壮大な本格的なものでした。

 

このお寺の本尊として、飛鳥大仏(2,8m)がつくられたのです。

 

平安時代の前半と末期に火災に合い、荒廃していたのを江戸時代に再建されています。

 

飛鳥大仏の拝観は国宝なのに、そんな緊張感もなく手も届きそうな所におられました。

 

拝観者の入る床の高さと同じ高さに座っておられるのですよ!

 

じっくりアップで見つめる事が出来ます。

 

お寺側の案内の方も、近所のおじさん風で、ざっくばらんなお話です。

 

こういう感じで、明日香村の住人によって大切に大切に今まで

 

守って来られたのでしょうね。

 

 

 

 

飛鳥寺の近くに、

 

蘇我入鹿の首塚

 

蘇我馬子~蝦夷~入鹿と栄え大和朝廷の有力者入鹿が

 

日本で初めてのクーデターと言われる大化の改新で討たれました。

 

その時、入鹿の首がここまで襲ってきたと言われてるらしいですが…

 

先を急いでて、ピンボケボケの写真になりました 。

 

後方に見える小高い丘は、

 

甘樫の丘(あまかしのおか)

 

飛鳥路を歩いたこの日の最後のチャレンジでした。

 

頂上の展望台へと登りましたが、階段が~

 

でも、見事な眺めでした。

 

大和三山が見えると言うのですが…?

 

畝傍山、耳成山、香具山(うねびやま、みみなしやま、かぐやま)の三体ですが…

 

どれがどれやら?

 

 

 

飛鳥寺が見えます 

 

 

どの山がどれなのか?

 

 

 

 

 

 

 

采女の袖ふきかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く

 

志貴皇子の歌

 

この歌を刻んだ歌碑は2か所で見ました。

 

采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今はただむなしく吹いている 

 

犬養孝 書

(明日香村名誉村民) 

 

独特の旋律で朗々と万葉集を歌われた声が思い出されます。

 

 

今回の散策だけではまだまだ見る所を残してしまいました。

 

明日香村は、山あり、田圃道あり、たまに自動車道も横切りますが、

 

田園風景には大らかさを感じました。

 

又訪れて見たい所です。

 

 

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飛鳥路~伝飛鳥板蓋宮跡

2016-12-15 19:43:20 | 散策

 

 

婇女乃神吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久  志貴皇子

 

(采女の袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く)

 

こんな歌碑がありました。

 

 

志貴皇子(しきのみこ) 

は天智天皇の第七皇子

飛鳥時代から奈良時代初期にかけての皇族。

 

壬申の乱のあと、皇統が天智天皇から天武天皇に移り、それからは政治から離れ

文化人として人生を送った人。

 

自然を謳って、万葉集には6首残されている。

 

そこからしばらくして、

 

 

「伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡」

 

6世紀末~7世紀後半まで都が置かれていた飛鳥京

 

約百年間、歴代の天皇の宮が造営されるも、遺跡は分かっていません。

 

”史跡伝飛鳥板蓋宮跡には、4つの宮跡、古いものから順に、


飛鳥岡本宮(630~636年、舒明天皇)、

飛鳥板蓋宮(643~645、皇極天皇)、

後飛鳥岡本宮(656~660年、斉明天皇)、

飛鳥浄御原宮(672~694、天武天皇・持統天皇)


が重なって埋もれている。


このうち後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮にかけての遺構の一部が、

石敷の広場、石組の大井戸として、現在復元整備されている。”

…だそうです。 

 

 

 

 

右前方に見えるのが、石敷井戸の跡

 

後方の丘は「甘樫丘・あまかしのおか」 

この丘からは大和三山が見渡せるというので、行ってみましたが…

 

これはまた先の話とさせて頂き、この飛鳥京跡には、他にも遺跡が幾つかありました。

 

 

かなり、急な階段でした。

ここを登りますと、 「酒船石」 遺跡があります。

 

 

 

 

大きくてうまくカメラに納まりません。

あちこち、欠けていますが、後世、何かのために石の一部を持ち去ったのではと

言われています。

酒船石そのものの用途も分かっていないですし。

 

 

 

 

カップルがおられて、早くその位置を離れてほしいなあ~と思ったのですが、

タイムアウト!

仕方なく、写し込んでしまいました。

お顔を出す訳には行かないし…

上をカットしました。

竹藪もカット(p_-)

 

 

それから、酒船石から違う道を降りて来ますと、

 

 

 

何の変哲もない、この石積み、実は、

 

飛鳥時代にブロック状の精巧な切石を積んで築いた大規模な石垣の一部だったのです。

 

石垣はこの山に4層に積まれ、盛り土をしたものと分かりました!

 

この丘自体が、築かれたものといいますから、ビックリです。

 

 こんな大がかりなもの造る秀吉みたいな人が飛鳥にも居たんですね~

 

更に階段を下りて行くと、

 

 

 

 

亀形石造物と小判形石造物、と言ってもさっぱりわからない写真です。

ごめんなさい。

 

入場したかったなあ。

 

 

ここでようやく平らな所に下り、ひと安心。

 

ところが、仲間のひとりが足つったあ~と!

 

とても痛そうです。

 

でも、整体に心得のあるメンバーがいて、応急処置完了。

 

次の目的地に行きます。

 

今回は中身の濃~い、遠足です(;O;)

 

 

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飛鳥路~石舞台

2016-12-09 19:23:55 | 散策

 

高松塚古墳から飛鳥周遊歩道を石舞台へと向かいました。

 

道はかなりの坂道もあり、きつかったですが周りに広がる景色はすばらしく、お天気も最高。

 

上着がいらないくらいでした。

 

 

遠く、山の中腹に見えるのは岡寺の三重塔です。

 

あんな所までは行けないなあ~

 

岡寺は天武天皇の皇子で早世した 草壁皇子 の住んだ 岡宮 の跡に義淵僧正が創建。

 

下から見上げるだけで、前進です。

 

 

飛鳥川

 

ここに 玉藻橋 という橋が架かっていたのですが現代の橋でかつあまりにも普通なので…

 

 

明日香川瀬々に玉藻は生いたれどしがらみあれば靡きあはなくに  詠み人知らず

 

 

万葉集の歌碑がありました

 

 

その昔、人の往来はどれくらいあったのでしょうか、暗い所だったでしょうね。

 

 

田んぼ道、自動車道もありました。

自動車道沿いにはとても立派な家が立ち並んでいました。 ウラヤマシ…

 

 

ようやく、石舞台古墳に着きました。

 

どこにも石舞台がありません。

 

何年か前に来た時は、この草原にドッカ~~ンと横たわっていたのですが…

 

実は、石垣と木々とで完全に囲われて全く見えません。

 

この写真の向かって左の方に入口があり、どうやら入場料がいるらしい。

 

なんとも、風情の無いことです。

 

古代の日本が、この地にド~~~ンと据えたお墓でしょ。

 

千年以上風雨にさらされても今まで残ったのですから、今更囲わなくても。

 

結局、入場はしませんでした。

 

いつか見たあの自然の中にどうどうと残った石舞台のイメージのままに。

 

 

でも、どのようになってるのか、ちょっと心残りも…

 

朝作ったおにぎりとおかずを完食して、次の目的地に向かいました。

 

 

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飛鳥路~高松塚古墳

2016-12-07 00:59:51 | 散策

 

もう先月になりますが、奈良飛鳥に行ってきました。

 

京都駅からは近鉄に乗って樫原神宮乗り換えの飛鳥寺駅へ

 

そこから、飛鳥路の散策を始めました。

 

今回はちょっと歩きますよと言われていましたが、この日

 

19,415歩  11,64km 歩きました。

 

 

高松塚古墳

 

 

 

 

直径23mの二段築成の円墳

 

1972年 横口式石槨の発掘があり、その中に彩色壁画が見つかったのは有名です。

 

当時、大騒ぎで「飛鳥美人」の壁画はニュースで何度も見た覚えがあります。

 

その後、保存状態が悪かったのか、カビが発生し、

 

発掘当時の鮮やかな色彩は失われたと報道されていましたが、何とも残念な事ですね。

 

 

高松塚壁画館

 

館内には、壁画の検出当時の模写、一部復元模写、墳丘の築造状態など、

高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現されています。

 

残念ながら、入館はしませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に目指したのは、橘寺

 

田んぼが一面に広がっている田園風景の中を歩きました。

 

常日頃、なかなか見ないのどかな光景は気持ちのいいものでした。

 

でも、丘を越えて行くような所もあり、足にきますね~!

 

 

 

 

 

 

 

 

  次は石舞台へと行きます。

 

 

 

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