鹿児島のこと、早くお話したいのに10日も経ってしまいました
うかうかしてると、記憶が全部飛んでしまいます
気持ちを伝えたいなら新鮮なうちですよね
でも、何をしても遅い私には、それは望めません(@_@。
さて、
自宅から鹿児島へは、新幹線で4時間弱で着きました
新幹線と言えば、ものすごいことが起きましたね
「座面を外して、それを盾にしてください!」
12号車の混乱の中、
これを車掌さんは、乗客の皆さんに言ったとニュースで知りました
心に留めておこう!
そう思いましたが、
用心深くしていても、狭い車両の中でこんなことに遭遇したなら…
また 脱線しました、あ、私の話のことです(^^;)
今回は、島津家のお屋敷だった「仙厳園」にあった、
斉彬公の肝いりの施設を見て頂けますか?
この石垣は、「反射炉」の跡です
斉彬公は、大おじいさんの島津重豪(しげひで)の影響で蘭学に傾倒し、
西洋文明に憧れていたことはいたんですが…
考えは一歩進めて、日本が欧米諸国に対抗するために、
欧米の文明を取り入れてようとしていました。エライ!さすが♪
そんな先見の明のあった島津斉彬は、
他藩に先駆けて近代化・工業化に取り組みました、そして
「洋式工場群・集成館」
を磯の仙厳園に築きました
まず、「反射炉」
金属融解炉のことで、鉄を精製し鉄製大砲などを鋳造しました
それまでは、衝撃に弱い「硬い鉄」でしたので、
鉄の炭素の量を減らし粘り気のある「軟らかい鉄」に
変える必要があった
更に、そのためには反射炉を形成する耐火煉瓦の開発も必要でした
そういえば、斉彬公が反射炉の状態を見に来た時、
煉瓦が割れてしまうのを見て、もっと固い煉瓦をと、
命令していましたね
あの時のお殿様の激昂は忘れられないです
実はこの反射炉、技術を教えてくれる者も、既存の建物もなく、
オランダの書物を参考に苦労して築きました
すごい才能ですよね!
この耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど
思わぬ形で日本の西洋化にも貢献していくことになりました
今残る明治の建築物は、煉瓦造りが多いですよね
現在反射炉は写真の石垣の土台だけしか残っていませんが
「維新ふるさと館」で模型がありましたので、
反射炉、土台の上にこの施設がそびえていたのですね~
高さ、20mあったそうです
そして、ここで鋳造された代表的なものが
80ポンドカノン砲(2分の1模型) 維新ふるさと館にて
砲弾の重さが80ポンド(約36kg)
砲の長さが4m
薩英戦争では、150ポンドのボンカノン砲やいろいろな大砲が使われ、
敵国イギリスは、アームストロング砲という最新のものを
薩英戦争の実戦で初めて使用したということです
中国でのアヘン戦争などで欧米諸国がアジアの植民地化を進め出し
琉球や薩摩に異国船が度々来航するようになり、
斉彬公は危機感を持ち「富国強兵と殖産興業」の藩政改革を行ったのでした
蘭癖などという言葉で片付けてはならないですよね
が、志なかばで亡くなったことは、とても残念でした
大河ドラマ「西郷どん」で斉彬は大活躍でした
個人的な気持ちではありますが、
西郷どんより、斉彬さんが輝いていました
この方の藩に及ぼしたものは大きかったですね
鹿児島の街を、少し見ましたが、
斉彬公を祭神としてお祀りされてる神社もあったし、
この方は、薩摩人にとって、神様なんですね
1467年の応仁の乱を皮切りに戦国時代は延々と続きました
やがて、
徳川家をリーダーに、太平の世になりましたが、
さすがに、エンドレスではなかった…
江戸幕府を築いてほぼ260年後、とうとう迎えた幕末、
幕末の乱世は藩にとって、戦国時代の再来みたいなもの?
もう、刀や槍を振り回すだけでは何ともならない
海外の強国がやって来ているし…
もし、斉彬公がもう少し生きていたなら、
日本はまた違う道を進んでいたのでしょうか…