第27回 篤太夫、駿府で励む
明治元年(1868)
徳川の領地となった静岡に、徳川の家臣が続々と
それでも、江戸時代のことを思えば十六分の一の人数で、
多くが、フリーター状態だったと、
家康さんが仰ってました
懐事情も火の車のようで、篤太夫は徳川の重臣に
勘定奉行の役に就いてほしいと嘆願されていましたね
強く断る篤太夫でしたが、慶喜の計らいという事を聞き
水戸の昭武のところへは行かず、駿府に留まると決心しました
「勘定組頭にはならず、禄も受けない
百姓の矜持として、
百姓または商いをして穏かに駿府で過ごす」
と言った篤太夫の言葉を慶喜に伝えますと、
やはり可笑しろき奴…と、慶喜は微笑んだ
上様もあんなお顔をされるとは、と
笑顔が珍しかったようです
慶喜の日々は暗い顔ばかりの苦しい日の連続だったのですね
篤太夫は、きちんとした仕事をする人なのですね
このあと昭武に、
水戸に行けない理由とお詫びの文を書きました
昭武は、兄慶喜と篤太夫の関係を
”スぺシアル”と言っている
「自分に出来ることもございましょう、前を向かねば
パリで過ごした民にも恥じぬよう」
今なら中学生くらい?
反抗期の子も居れば、親に頼り過ぎる子も居る
さて、篤太夫は藩の財政を何とかしなければと考えた
パリの銀行員のロッシュに教えてもらった
<キャピタル・ソシアル>
この実現に動き出しました
新政府から諸藩の財政を救うためという名目で
太政官札を渡していた
入金 五十三万両
支出 二十八万両
残高 二十五万両
家臣達が蔵にあるという残りの太政官札利用法を
集まった武士、商人に話した
「これは借金に過ぎず、貰えるお金ではないですよ
藩の別会計として、自分が残りを預かり運用する」
(商人からお金を集める + 太政官札)これを元に
(コンパニー=合本の商い)を始める
大勢から少しずつでも集めれば多額のお金となる
商いを軌道に乗せ、拝借金を返す、更に
初めに出金してくれた者に配当金を回す
簡単には理解してもらえず、説得を続けた
必ずお金は返ってきます、と言われても…
悪徳商法なのかも、と思わなくもないです
商人の物分かりの良い方がまず、協力しますと
幕臣だった川村恵十郎も理解する
篤太夫は「商法会所(銀行+商社)」をつくった
これが、一番最初に渋沢栄一が立ち上げた機関だったのでしょうか
パリで見聞きした知識の使いどころですね
太政官札を正金に替えるのに、
三井組事務所であの番頭さんに会った
番頭さんは、数回会っただけの篤太夫を警戒をしているようです
手強い商売敵になるぞと思ったのでしょう
正金に交換するにも、渋ってましたね
「食えねえ親爺だ」 なんて言ってました、篤太夫殿
日本に帰って来て、重要な人と次々会ってます
市場では、五代友厚に会いました
五代は、篤太夫に気付いてました
篤太夫は、名前を聞くまで分かりません
五代と気付くなりパリで借款が無くなったことを思い出した
あなたのせいよと追いかけたが見失ってしまって…
そうでしたね、パリの旅費が乏しくなり昭武の仮住まいも
ランクを落としたり大変でした
パリへ一緒に行った人の中に高松凌雲というお医者さんが
おられました
敵味方なく治療をしている外国の病院の人々に驚いていましたが
新政府 対 幕府の戦いの中ではその診方がなされてました
幕府軍は戦いに負けたのに、箱館はまだ戦が続いている
もう、敗戦が見えたという土方歳三は
最期を迎えるためと、戦場へ向かった
そんなに死に急ぐなんて
そのくせ成一郎には、逃げるようにと伝えていた
助かるのだろうか…
数日後、箱館の戦は終わった…
あの強面のお侍、川村恵十郎
この方の思いも深かった…
平岡円四郎の命も守れず、戦でも死にぞこない、
徳川に捧げられなかった命を持て余し、ここに来たが
ただ、禄がほしくて流れて来たのではない
徳川のために何かできぬかと…
静かにそろばんを弾く姿が何とも寂しい
成一郎の安否が分からないことについても、
忠義を貫いたのなら、本望だろうと
自分に置き換えて呟いたのかもしれない
武士という者のなくなった時代に武士だった人達の日々
コロナと隣り合わせの日常を受け入れるしかない日々