kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

青天を衝け~Money comes and goes.

2021-09-22 22:58:45 | 青天を衝け


第27回  篤太夫、駿府で励む



明治元年(1868)

徳川の領地となった静岡に、徳川の家臣が続々と

それでも、江戸時代のことを思えば十六分の一の人数で、

多くが、フリーター状態だったと、

家康さんが仰ってました

懐事情も火の車のようで、篤太夫は徳川の重臣に

勘定奉行の役に就いてほしいと嘆願されていましたね


強く断る篤太夫でしたが、慶喜の計らいという事を聞き

水戸の昭武のところへは行かず、駿府に留まると決心しました


「勘定組頭にはならず、禄も受けない
百姓の矜持として、
百姓または商いをして穏かに駿府で過ごす」


と言った篤太夫の言葉を慶喜に伝えますと、

やはり可笑しろき奴…と、慶喜は微笑んだ

上様もあんなお顔をされるとは、と

笑顔が珍しかったようです

慶喜の日々は暗い顔ばかりの苦しい日の連続だったのですね


篤太夫は、きちんとした仕事をする人なのですね

このあと昭武に、

水戸に行けない理由とお詫びの文を書きました

昭武は、兄慶喜と篤太夫の関係を

”スぺシアル”と言っている

「自分に出来ることもございましょう、前を向かねば

パリで過ごした民にも恥じぬよう」


今なら中学生くらい? 

反抗期の子も居れば、親に頼り過ぎる子も居る




さて、篤太夫は藩の財政を何とかしなければと考えた

パリの銀行員のロッシュに教えてもらった

<キャピタル・ソシアル>

この実現に動き出しました

新政府から諸藩の財政を救うためという名目で

太政官札を渡していた

入金 五十三万両

支出 二十八万両

残高 二十五万両

家臣達が蔵にあるという残りの太政官札利用法を

集まった武士、商人に話した

「これは借金に過ぎず、貰えるお金ではないですよ

藩の別会計として、自分が残りを預かり運用する」


(商人からお金を集める + 太政官札)これを元に

(コンパニー=合本の商い)を始める

大勢から少しずつでも集めれば多額のお金となる

商いを軌道に乗せ、拝借金を返す、更に

初めに出金してくれた者に配当金を回す


簡単には理解してもらえず、説得を続けた

必ずお金は返ってきます、と言われても…

悪徳商法なのかも、と思わなくもないです

商人の物分かりの良い方がまず、協力しますと

幕臣だった川村恵十郎も理解する



篤太夫は「商法会所(銀行+商社)」をつくった

これが、一番最初に渋沢栄一が立ち上げた機関だったのでしょうか

パリで見聞きした知識の使いどころですね


太政官札を正金に替えるのに、

三井組事務所であの番頭さんに会った

番頭さんは、数回会っただけの篤太夫を警戒をしているようです

手強い商売敵になるぞと思ったのでしょう

正金に交換するにも、渋ってましたね

「食えねえ親爺だ」 なんて言ってました、篤太夫殿


日本に帰って来て、重要な人と次々会ってます

市場では、五代友厚に会いました

五代は、篤太夫に気付いてました

篤太夫は、名前を聞くまで分かりません

五代と気付くなりパリで借款が無くなったことを思い出した

あなたのせいよと追いかけたが見失ってしまって…

そうでしたね、パリの旅費が乏しくなり昭武の仮住まいも

ランクを落としたり大変でした

パリへ一緒に行った人の中に高松凌雲というお医者さんが

おられました

敵味方なく治療をしている外国の病院の人々に驚いていましたが

新政府 対 幕府の戦いの中ではその診方がなされてました



幕府軍は戦いに負けたのに、箱館はまだ戦が続いている

もう、敗戦が見えたという土方歳三は

最期を迎えるためと、戦場へ向かった

そんなに死に急ぐなんて

そのくせ成一郎には、逃げるようにと伝えていた

助かるのだろうか…

数日後、箱館の戦は終わった…



あの強面のお侍、川村恵十郎

この方の思いも深かった…

平岡円四郎の命も守れず、戦でも死にぞこない、

徳川に捧げられなかった命を持て余し、ここに来たが

ただ、禄がほしくて流れて来たのではない

徳川のために何かできぬかと…


静かにそろばんを弾く姿が何とも寂しい

成一郎の安否が分からないことについても、

忠義を貫いたのなら、本望だろうと

自分に置き換えて呟いたのかもしれない

武士という者のなくなった時代に武士だった人達の日々



コロナと隣り合わせの日常を受け入れるしかない日々




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