第16回 伝説の幕開け
義仲の寝覚の山か月悲し 芭蕉
木曽の情雪や生えぬく春の草 芭蕉
木曽殿と背中合せの寒さかな 又玄
木曽塚の夏艸ひくも宿世かな 兼輔
巴(を歌って)
かくのごときをみなのありとかつてまた
おもひしことはわれになかりき
としつきは過ぎにしとおもふ近江ぬの
みづうみのうへをわたりゆく月
三浦義一
巴御前は義仲が亡くなり数年後
尼僧になって訪れ寺のそばに草庵を構え
日々、義仲の菩提を弔ったそうです
「無名庵」と呼ばれ、
今は一般に句会や文化活動の会所として利用させてもらえます
木曽義仲のお墓
お墓の後方の白壁の建物が無名庵です
当時のままではないでしょうね
↑巴御前の小さなお墓
木曽義仲は
平安時代末期の信濃源氏の武将、源義賢の次男
『平家物語』においては旭将軍とも呼ばれている
以仁王の令旨によって挙兵
倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する
頼朝や義経を同志と信じ源氏再興を目指したのでしょうね
しかし平家を京から追放したあと
後白河法皇には嫌われ、東国の源頼朝からは圧力を受けた
義仲は頼朝が派遣した義経を大将とする源氏軍に
粟津(近江)の戦いで討たれてしまいました
ドラマの場面では、矢が義仲の顔を射貫くという何とも
残虐なシーンはいたたまれませんでした
義仲に寄り添い命も惜しまず戦った巴御前、素晴らしい
時代祭でも一番輝いています
義仲は陣から巴を逃がしてましたね
巴はその後、どこでどの様に生きたのでしょうか
色々あったのでしょう
義経同様、各地に巴御前伝説が残っているようです
「鎌倉で生き残ろうと思えば、頼朝の言う通りに動くしかない」
と、時政は義時に言いました
あの、上総介廣常を謀反人に仕立てて殺した頼朝のやり方
坂東武者は震えあがっていた
裏のある話ばかりで皆の心が分からなくなってしまいました
ほんとに、だまし討ちだらけで信じられることがない
血塗られた鎌倉
義仲は、最後まで頼朝や義時を信じていたようです
いや、信じたかった!のかもしれませんが
鎌倉に人質となったままの息子の義高はどんな思いでいるのか
政子、実衣、大姫は義高の見方の様です
義経は、先陣の大将として福原へと進んだ
この事にもいくつかの戦略があり
梶原景時が、自分が思い付かなかったと悔しがったほどの
妙案だったらしい
宗盛はここへは源氏は攻めてこないと安徳天皇に伝えていたが…
寿永三年(1184)二月七日 一の谷の攻防が始まった
それを見ていた梶原景時は言った
「八幡大菩薩の化身じゃ」
義経は西へ平家を追い次々と、打倒した
戦の天才とうたわれた義経、この強さは何をもたらすのか
義経伝説は始まった
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