第七回 青天の栄一
漢文によるポエム ですか
惇忠の塾で栄一は、漢詩を教本にして
色々なことを勉強していた
あ~やっぱり昔の人は偉いですね
わらじで山野を歩いて遠いところまで行く
その体力が凄いなあ偉いなあと思いましたが、
まだありました
勉強方法も、あの難しい漢詩が教科書とは
思い起こせば小学校で、ひらがなを覚え、
字画が一画、二画、三画と優しい文字から
教えてもらい、次第に漢字を会得していく
小学校で漢字テストが何度もありました
嫌でした
教室に、全紙大のグラフ用紙が貼られます
横にクラスの面々の名前が書かれ
縦に…あれは何?
漢字テストで合格点をとるとシールが増えていたかな
先生が、小さな赤い丸のシールを貼って行く
いい点は取りたし、勉強は嫌
そうして、6年生を最後に赤丸レースは終わった
習ったはずの漢字を私の頭は取りこぼしていった(T_T)
という私の小学校の思い出でした
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
ということです(>_<)
栄一や喜作は、向上心のある青年だったのですね
藍の仕事をしながら、塾に通ったんですもんね
あの幕末の頃、ひらがなと漢字を使った散文もあったような…
例えば坂本龍馬の手紙、ひらがなが目立ってた
乙女姉さん宛てとか、お龍さん宛てとか
結局、日常的には、ひらがな混じりの文で
芸術としてPoem を詠むのは漢文だったということでしょうか
ああ~こんなことも分からない
冒頭で、家康さんが
『漢詩で江戸人の心を知る…』
とか言っておられました
漢文って一般的に広まっていたのでしょうか
それなら、すごいですね
なんか今思い出しましたが、高校の漢文の時間に
「返り点」や「送り仮名」を付ける練習があったような
漢字ばかりがぎっしり並んだ文に、返り点と送り仮名を書き込む
そんなことをしたような…
今は漢文の授業、あるのでしょうか?
惇忠の塾に通った若人は、
偏差値高かったんですよね、きっと
そして、更にレベルの高い学問や武道を習いたくて
江戸へ江戸へと、心がなびいています
余談ですが、江戸を築いた徳川一家
すごいですね~
今も、東京ファーストです、日本は
惇忠兄さんと栄一が、藍の商いのため一緒に出掛けました
武州藍ですね
そうかあ~惇忠さんも、藍の商いをしていたのですね
いつも書物を読んだり、栄一達に学問を教えたり
そんな姿しか見てなかったので、意外でした
尾高家の家計は惇忠による学問や武術の指南料によって
賄われてると思ってました
その二人の信州方面への外回り営業の途中
栄一は、漢詩を詠んでいましたね
まあ~お父さんから、旅の途中でそういうことはせず
仕事に集中するように注意されたのに、聞いちゃいないわ
でもその漢詩は
「巡信紀詩」
として、残っているそうですね
惇忠兄さんと藍の外商の旅の途中、内山峡にて詠んだPoem
その中から抜粋した 「衝青天」
「青天を衝く」
これをドラマの題名としたのだそうですね
まだまだ青い渋沢栄一は長七郎の手紙や惇忠の教えから
自分が何をやりたいのかを
見据えて歩を進めているようでした
旅支度をととのえると もう心は浮き立っている
ほんの短い旅だが それがちょうど野や山の
最も美しい時期にあたるなんて 誰が知っているだろう
さあこれから先達のあとについて 信州へと旅立つ
夜ごと旅の宿でその土地の風情を 詩に歌っていくことにしよう
山はうねうねと 波のごとき姿で
西は浅間山に接して ふたつ向かい合っている
天然の石や岩が ごろごろした岩肌は
人が削ってつくったかのように 険しい
一巻の書を肩に 険しい峰をよじ登る
やがて谷を歩くも 峰をよじ登るも
ますます深く険しくなり
見たこともないような 大きな岩や石が
横たわっている
私は青天を衝く勢いで
白雲を突き抜けるほどの勢いで進む
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