第23回 篤太夫と最後の将軍
大政奉還、王政復古
日本史上、とても大きな変革が起きている時
篤太夫は、パリの空の下、一見楽しげに日々を送っている
そんな風にも見えますが、
書記、会計を預かり同行の人たちのお世話も担っていた
大変な役目だったのでしょうね
藍で培った商いの手腕がここで生きてきました
篤太夫は長い海外生活の中、血洗島に残した千代さんや娘さん
ご両親の事が気にかかり
手紙だけでなく、自分の写ったフォトガラフを
この時は、郵送?まだ飛脚?
家族はびっくり!
私の祖母(明治生まれ)写真を撮られるのが嫌いだったらしく
確かにカメラ目線のは1枚も見てません
パリに戻ります(^-^;
600万ドルの借款がだめになったのは、一大事ですね
でも何とか為替?をもらうことが出来た
日本は、大政奉還、王政復古と大きく変わっていった時
篤太夫たちは…
共にパリに来た一行の幾人かは帰国し、
民部公子、篤太夫その他の留学生は
(万博が終わって、立場は留学生となっていたとか)
刀を外し、髪を切りなさいと、フランスから言われる
”ます鏡こころを照らせ姿こそ変われどおなじ大和魂”
まるで、辞世の句のように号泣しながら詠い
切腹させられるかのような顔で髪切る人も居れば
篤太夫は、わくわく顔です
変わった事に遭遇するといつもわくわくの篤太夫
そして、フランスを立ち、スイス~ベルギーと渡った
いつの間にか篤太夫は、”異国は風通しよくて良い”
と感じていました
”フランスは役人も兵士も商人も皆、身分は平等
だから、自分の力を発揮する場所がある
そして、それぞれ国のために働く”
風通しのよさは、ここから来るんだなと考えました
血洗島では代官に、事あればお金を持ってくるよう
言われていましたものね
これでは働けばはたらくほど、やるせないです
フランスの銀行のオーナーのヘラルドさんと
そんなやり取りをしていました
ヘラルドさんが、
「日本はきっといい国になる」
と篤太夫に行ってくれたのは、母の教えの、
「みんなが嬉しいのがいちばんなんだよ」
の考え方をヘラルドさんが感じたからなのかも
(昔の近江商人の軸は ”三方良し” 同じかな)
一方、日本の慶喜は、側近の原市乃進が水戸の直参数名に
斬り込まれ亡くなった
平岡円四郎もそうだったし、
「なぜ、私の大事なものを次々奪う」
と悲しんだ
そんな中を、大きな出来事が待ったなしでやって来る
あれこれと思いを巡らせど、やっぱり
「こんな時、ひとりで考えなければならないのか…」
慶喜は円四郎や篤太夫がそばに居てくれたなら
と思ったのでしょうね
そうですよね、こんな時一緒に考えたり叱ってくれたり
ただただ、聞いてくれるだけもでいい…
そんな状況が、まだ飲み込めない…
かけがえのない人を失う
だれにもそんな時がありますもの
ましてや、日本のナンバーワンのお方だから
孤独は、深かった
京で、謹慎の身だった岩倉具視は
天子さまにお目通りゆるされ、何を言ったかというと
「五百年ぶりに御上による政をするにあたり
万事、岩倉にお任せください」 ですと
そして、錦の御旗を用意した岩倉、頭脳王か?
錦の御旗は、手強い!
山内容堂は、朝廷で政を固めるのはもっての外と反論
そんな中、慶喜への評価が良いのですね
意外な気もします
松平春嶽は慶喜が居ないのは、政がまわせない
西郷吉之助は慶喜に頭では勝てない
岩倉は慶喜はだめな人と思ってた、が違った
そんな見方をしていた
その頃江戸城二の丸に火を付けられた
なるほど、慶喜は聡明なのが分かりました
敵の罠を見抜きました
「焼き討ちは罠だ! 動いてはならぬ」
でも、遅かった…
幕府側は薩摩屋敷に火を放った
確かに、西郷が
「戦をしないというなら、するように仕向ける」
と豪語してましたね
慶喜は、その焼き討ちの意味を悟った
篤太夫、早く日本に帰って来て下さ~~い(⋈◍>◡<◍)。
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<錦の御旗>
2015.10.22の時代祭(於:平安神宮前)での写真です
最強の錦の御旗
旗を持つのは勤王隊
鼓笛隊
大政奉還、王政復古、明治維新と活躍した志士の写真も
残ってます(時代祭での)
もう、6年も時代祭を見てないとは…
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