第24回 パリの御一新
後半が始まりました
振り返ってみると、栄一も大人になりましたね
「母っさま、ぎゅ~っとしとくれ」
と言ってたあの栄一が
平岡円四郎に認められ、慶喜に認められ
今は、昭武に頼られていますね
幕末から明治初期
パリ万博へ、昭武に随行して、
その続きに留学のために各地を周った人って
この当時きっと数少ないですよね
こういう運命を引き寄せた栄一は
やっぱり、稀なる人なんでしょうね
もちろん努力を積んだことは間違いないですが
とにかく、訪欧の時期、日本もまた凄いことになっていた
篤太夫のところへは、どうやら1~2か月遅れで
日本の情勢を書いた手紙が届くようですが
どの手紙も、唖然とするような内容でしたね
慶応3年1月11日~3月6日 横浜出港~船中
慶応3年3月7日 パリに到着
昭武一行、パリ万国博覧会を観る
慶応3年8月6日~11月22日 欧州各国に挨拶(篤太夫は行ったかな?)
慶応3年11月23日~慶応4年8月29日 昭武留学のお供
慶応4年8月30日~明治元年11月3日 帰国の途につく
この間、手紙が届いている
1868.1月 慶喜より、政を帝に返上した、と
1868.2月 日本国より、大阪城へ抗議の兵が押し寄せた
他に、平九郎から、見立て養子になったと
惇忠から、長七郎が牢を出たが投獄中の辛さからか元気なしと
母は篤太夫の文や送られた写真を喜んでいると
千代は、お前さまは変わった、
異国人と同じ姿が、あさましい、見るのもつらいと
千代さん、ムッシュ・シブサワはお嫌いですか?
3月に届いた手紙は、1月の事が書かれていて、
鳥羽伏見の戦いで、
幕府軍は新政府軍に負け、撤退
慶喜は、江戸へ帰った
逃げたことにより、徳川は朝敵とよばれる
江戸は攻められようとしている
それでも、慶喜が昭武に出した手紙には
日本に帰って来ず、留学を続けよと
結局半数のお供の者は帰国した
篤太夫の悩みの種は、滞在費の捻出だった
とにかくパリに来てずっと足りないようですね
銀行家 フロリ・ヘラルド
この方は、篤太夫にお金の増やし方を教えてくれた
ただ、”青天を衝け”の中で、単にお金儲けをする
というのではない
でもま、することは同じのようですけど…
旨くヘラルドさんは教えてくれました
Capital social
志はよくても一人では出来ないことも
少しずつ多くの人から集めることにより実現する
同時に、貸したほうもそこの事業が旨くいけば
配当金がもらえる
子供の頃、母っ様が言ったのと同じだ
「自分だけでなくみんなが良くなるのがいいんだで」
これだ、探し求めてきたのは ↑こっちの事です
どうやら、篤太夫は国債と、鉄道債を買って
いい配当金を受けてたようですね
やるやん(@^^)/~~
銀行家のフロリ・ヘラルド氏と固いきずなが出来たようですね
日本では水戸藩主徳川慶篤が亡くなり、昭武をその跡継ぎにと
知らせが来た
昭武はちょっと難色を示したようですけど
前駐日フランス公使のレオン・ロッシュは
日本より帰国し昭武と会い日本に変えるのは危険
と伝えたが、昭武の意思は固かった
”日本に帰ろう”
水戸藩主になると決めたのですね
篤太夫に、帰国してもそばに居てほしいと告げた
可愛い💙
頭脳明晰で、お上品で、素晴らしい民部公子さん
訪欧の旅で、凛々しくなられました
官職名 民部大輔の「民部」と貴い人の子息の意味の「公子」
ふたつを合わせ 「民部+公子」 だそうです
旅立ちの日、ヴィレットさんという仏人より
インモルテル(不滅)という花言葉の花束を
(和名 ムギワラギク)
貰っておられました
1868年8月30日 フランスを発つ
再び2か月ほどかかる長旅だったのでしょね
無事帰国良かったですね
水戸で蟄居だった慶喜にはやく会えますように
慶喜さん、元気出ますよきっと♪
そして、篤太夫
探し求めていたものがパリで見つかりました
さて、何から手掛けるのでしょうか
楽しみです😊
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