【社説・01.17】:語り継ぐ/一人でも多くの命守るために
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説・01.17】:語り継ぐ/一人でも多くの命守るために
あの日、激しい揺れとともに平穏な日常が一瞬にして奪われた。死者6434人、行方不明者3人。あまりにも多くの命が失われた阪神・淡路大震災の発生から、きょうで30年になる。各地で追悼行事が営まれ、遺族らが静かに祈りをささげる。癒えることのない悲しみを胸に、それでも前を向いて懸命に生きる人々の姿がある。支える人たちがいる。
震災犠牲者の名前が問いかける
30年を経た今も、災害で多くの命が奪われ続けるという現実に向き合うとき、教訓の風化はあり得ない。最優先すべきは命を守ることだ。犠牲者を一人でも減らすために、何ができるのか。生き残った者の責任として、備えを重ね、社会のありようを問い続けていかねばならない。遺族らの営みと紡ぐ言葉から改めて体験を語り継ぐ意味を考えたい。
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突然の悲劇は遺族に深い心の傷を残す。心理カウンセラーで関西大バレーボール部監督の岡田哲也さん(56)=尼崎市=は、震災で同居する両親と帰省中の姉、めいの4人を亡くした。西宮市の木造2階建ての実家は激震で全壊し、2階で寝ていた岡田さんは近くに住む親戚に助け出されたが、1階にいた4人が家の下敷きになって亡くなった。
「自分の重みが家族を殺した」。岡田さんは長く罪悪感にさいなまれてきた。勤務先では気丈に振る舞ったが、一人になると泣いた。自殺しようと思った日もある。生きたくても生きられなかった両親らを思い、逃げずに生きようと決心したが、悲嘆は癒えることがなかった。
■失うことと向き合う
震災から9年が過ぎた2004年の夏、転機が訪れる。夕方と夜に2回地震があり、翌日、涙が止まらなくなった。会社の医務室で看護師に相談した。罪悪感や喪失感を初めて他人に打ち明けた。「一人で頑張ってきたんやね」と声をかけられ、岡田さんは心が少し軽くなった。
「つらい経験をした自分だからこそ、多くの人に寄り添える」と約1年後に心理カウンセラーの資格を取り、退職して活動を始めた。現在は企業や大学で多くの相談に応じる。
今の岡田さんにとって、母校・関西大のバレーボール部員たちは家族のように思えるかけがえのない存在だ。監督として技術、精神面を支え、被災体験も伝える。「震災で知ったのは『当たり前』の大切さ。後悔がないよう、今を大事に生きてほしい」。部員への言葉は過去に自らに言い聞かせた言葉でもある。
今年も17日は4人の名前が刻まれた西宮震災記念碑公園を訪ねる。命を落とした人たちの名前一つ一つに生きた日々、悲しみや苦しみ、失われた希望がある。その事実を何年たとうとも忘れないと肝に銘じる。
■悲しみ繰り返さない
同じ悲しみを繰り返さない-。その意志は発災から30年にわたり阪神・淡路の被災地に宿り続ける。
神戸・三宮の東遊園地にあるガス灯「希望の灯(あか)り」は震災から5年後に完成し、今も市民の手で大切に守られている。設置に取り組んだ神戸市在住の俳優、堀内正美さん(74)は「犠牲者への慰霊だけでなく、生き残った人々が一歩を踏み出せる場が必要だった」と振り返る。
30年間、ボランティア活動に打ち込み、遺族支援にも尽力してきた。原点となる震災当日の「悲劇」を昨秋出した著書で初めて明かした。
倒壊家屋の太い梁(はり)に挟まれた男児がいた。救出しようとしたがびくともしない。火が迫り、男児のそばを離れようとしない母親を数人がかりで引き離した。後日、母親は心を病み、その地を去ったと聞いた。「正しい行動だったのか、今も答えは出ない」。生々しい葛藤が残る。
喪失と悲嘆は誰にでも訪れる。家族を失い、悲しみに暮れる人が他者のために何かをすることで希望を抱いていく。悲傷を超える連帯の場をつくろうとしてきた30年だった。
人々がつらい記憶を伝えてきたのは「一人でも多くの命を守りたい」との強い思いがあるからだ。死者に祈り、生きるとは何かを考える。その大切さを胸に刻み込む。
元稿:神戸新聞社 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2025年01月17日 06:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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