藤沢隆[テレビ・プロデューサー/ディレクター] http://blogos.com/article/105211/
前回のメディアゴンの記事「<今、メデイアがすべき大事な仕事>安倍首相の中東訪問はどのような政府の戦略のもとで実行されたのか?」で安倍首相の発言に周到さがなく、逆に「前のめりグセ」があるのでは? と指摘させていただきました。その中で2月2日の政府声明を取り上げました。
「残虐非道なテロリストたちを私たちは絶対に許さない。その罪を償わせるため日本は国際社会と連携していく。」
テレビ朝日「ニュースステーション」によれば、この文言は官邸の意向で付け加えられたものだそうですが、筆者には「罪を償わせる」という文言が「復讐」をにおわせる激しい表現に聞こえました。案の定、「ニューヨークタイムス」紙をはじめ、少なからぬ海外メディアは「罪を償わせる」を「リベンジ」と解し、日本がイスラム国に「復讐」あるいは「報復」するという政府声明を出したと伝えたようなのです。
しかし、前稿でも書いたように、この言葉について、その後の国会答弁で安倍首相はこう説明しています。
「二人を殺害したテロリストは極悪非道の犯罪人であり、どんなに時間がかかろうとも国際社会と連携して犯人を追いつめて法の裁きにかけるという強い決意を表明したものでございます。(中略) 警視庁及び千葉県警による合同捜査本部を設置いたしまして事件の全容解明に向けて所要の捜査を開始したところでございます。(中略) 罪を償わせるということは、彼らが行った残虐非道な行為は法によって裁かれるべきであろうとこう考えるところであります。」
国会答弁は刑法犯を警察力により逮捕し、法に従って処罰するという、しごく当たり前の発言で、国家によって「復讐」することとはまったく違う話です。声明の数日後に外務省が出した英訳では「復讐」とか「報復」とは受け取られないような柔らかい表現になっているそうです。
もし、国会答弁の方が安倍首相の真意なら、なぜ最初から誤解を招かないような表現を選ばないのでしょうか。どうしても強い言葉を選びたがる安倍首相の「前のめりグセ」が軽率な言葉の選択になり、国際的な誤解を生んでしまったのではないでしょうか。
もうひとつ、前稿でも取り上げた、問題視される2月17日のエジプトにおける安倍首相演説です。
「(前略)イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。(後略)」
この表現に配慮が足りなかったのではと指摘されているわけですが、この批判に対し安倍首相は、
「テロリストの思いを忖度してそれに気を配る、あるいは屈するようなことがあってはならない」
という趣旨の強気の発言で押し通しています。しかしこの3日後、イスラエルでの内外記者会見では前文と同様の説明部分で安倍首相自身が、
「(前略)国際社会への重大な脅威となっている過激主義に対し、イスラム社会は、テロとの闘いを続けています。(中略) 日本も、イラクやシリアからの難民支援を始め、非軍事的な分野で、できる限りの貢献を行ってまいります。 我が国が、この度発表した2億ドルの支援は、地域で家を無くしたり、避難民となっている人たちを救うため、食料や医療サービスを提供するための人道支援です。正に、避難民の方々にとって、最も必要とされている支援であると考えます。(後略)」
という文言に終始しています。どうでしょう、エジプト演説とはだいぶニュアンスが違うと感じるのは筆者だけでしょうか。さらに記者との質疑応答でも、
記者:「イスラム国側は、総理が先日カイロで表明された2億ドルの支援表明を理由に、殺害警告を挙げております。このように総理の方針に挑戦するかのようなイスラム国の対応についてどのようにお考えになるか(後略)」
安倍首相:「この2億ドルの支援は、正に避難民となっている方々にとって最も必要としている支援と言えると思います。避難民の方々が命をつなぐための支援といってもいいと思います。地域の皆さんが、避難民となっている方々が必要となっている、こうした医療、あるいは食料、このサービスをしっかりと提供していく、日本の、私は責任だろうとこう思っています。(中略) 地域の人々が平和に安心して暮らせる社会をつくっていく、そのために日本は、今後とも非軍事分野において積極的な支援を行ってまいります。」
やはり、このイスラエル会見では17日のエジプト演説とは違う配慮が貫かれているように思えます。
もし、エジプトでの演説でもイスラエルでの内外記者会見のような文言を用いていたら、その後の配慮不足という批判は出なかったでしょうし、もしかしたら、イスラム国に日本を「聖戦」における敵とみなす口実を与えなかったのかもしれません。もちろん、だからといって湯川・後藤両氏の命が救われたかどうかはわかりませんが。
しかしなぜ、安倍首相は重大な場面で強い発言をし、その後に別の柔らかな表現に改めるという事を繰り返すのか、なぜはじめから配慮した発言をしないのか? それは国家としての意図的な戦略というよりも、安倍首相の「前のめりグセ」なのではないかと思えてなりません。
2月第1週、イスラム国問題が論議される衆参両院で開かれた予算委員会の集中審議テレビ中継を可能な限り視てみました。メディアゴン編集部は「翼賛体制構築に抗する声」に賛同していますが、まさに国会でのやりとりはその憂慮のとおり、政府批判にはいささか恐る恐るの感があります。
「いま国民は残忍なテロに対して心を一つにして立ち向かわなければならない。いろいろと批判するのはイスラム国を利するだけだ。」
という意見に押されているような印象でした。
そうした雰囲気の中、政府は核心を突く質問には真っ向からは答えません。エジプト演説の問題点について、
「演説内容が人質二人の命に危険をもたらすかも知れないという認識はあったか?」
という質問にもせいぜい、
「テロリストに過度に気配りする必要はない」
として肝心の質問主旨である“認識の有無”には頑として答えません。このような芯を外した答弁が延々と続きます。
こうした場合、テレビニュースは「国会論戦はすれ違いに終わりました」とか「議論はかみ合いませんでした」としめますが、この表現は間違いのように思います。正しくは「政府は真っ向から答えませんでした」ではないでしょうか。
そんな中、印象的だったのは共産党・小池晃議員の、
「17日と20日では発言のニュアンスが変わっているのは人質の命の危険を認識したからではないか」
という質問に対し、なんと安倍首相が突然質問主旨をまったく逸脱した答弁を始めたことでした。
安倍首相:「小池さんの質問にはISILに対して批判してはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それはまさにテロリストに屈するということになるんだろうと私は思います。」
さすがにこれは暴言でしょう。この時の安倍首相の表情には、テレビ画面から苛立ちがはっきりと見て取れました。やはりこの人は苛立つと瞬間湯沸かし器的に強い言葉を吐き出したくなる癖があるのではないかという強い印象を受けた場面でした。それにしてもあまりにひどい発言ですね。これが大きな問題にならないのは翼賛体制の故かも知れません。
イスラム国関連質疑ですが、安倍首相には一貫して「前のめり」な強気と苛立ちが見え、そして「人命尊重」を謳いながら結果として二人の日本人の命を守れなかった痛切な反省がほぼ見えなかった国会論議でした。
そして蛇足です。二人の日本人が惨殺された哀しみの中での予算委員会初日のことです。ほぼモノクロのテレビ画面に際立ち続けるひと筋のピンク。その激しい場違い感。それは安倍首相の隣に座る人のネクタイでした。あまりに色あざやかなピンクです。それは、政府首脳たる麻生副首相のネクタイです! なにかお祝い事でもあったのですか?
安倍首相の苛立ちとピンクの場違い感、これらをくっきりと映し出すのがテレビ。
ちなみに、積極的平和主義とは「proactive contribution to peace」と訳されるそうです。この意味が伝わっているのでしょうか。(引用ここまで)
安倍式「前のめり」=憲法平和主義の否定であり、歴史の反動なのに!
安倍首相 エジプトでの前のめり演説で揚げ足取られたとの声 2015.02.11 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20150211_302990.html
国際政治アナリストの菅原出(すがわら・いずる)氏が指摘する。「イスラム国は日本人2人の人質を手にした時から利用するタイミングを考えていた。安倍首相がエジプトで前のめりの演説をしたことが、彼らに揚げ足を取るきっかけを与えた」(引用ここまで)
歳川 隆雄 集団的自衛権行使容認を4月中に閣議決定!? 公明押し切り安倍首相が「前のめり」になる理由2014年02月22日(土)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38451
外交・安全保障政策に関する安倍晋三首相主導による内閣答弁の〝前のめり〟が際立ってきている。集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈の変更問題と、従軍慰安婦問題に関する「河野(洋平官房長官)談話」見直しについてである。『朝日新聞』(2月21日付朝刊)は一面トップに「憲法解釈変更『閣議決定で』 集団的自衛権 走る首相」の大見出しを掲げ、二面には「首相、危うい独走 集団的自衛権答弁 与党も懸念」としたうえで、20日の衆院予算委員会で従来の政府見解を大きく踏み越えた答弁を行った安倍首相を批判的に報じた。集団的自衛権行使容認問題については、『朝日新聞』のみが先鋭的に繰り返し報道している。安倍首相は先の衆院予算委員会で集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更を閣議決定した上で、自衛隊法を改正する方針を表明すると同時に、「安保法制懇談会(座長・柳井俊二元駐米大使)の検討を受けて、内閣としてどう解釈するか詰めていく。当然、内閣法制局を中心にその議論を行っていく」と答弁した。…それにしても、上述の『朝日』に「前のめり」との表現があったが、筆者も同様な印象を持つ。国会論戦での野党の体たらくもあるが、安倍首相は「今が攻め時」と考えているに違いない。(引用ここまで)
【安倍政権】東奥日報 天地人 「美しい国」づくりへひた走る安倍政権は、安保政策に前のめりだ 2014年12月30日(火) http://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2014/ten20141230.html
「あの世の沢田も喜んでいると思います」。その一言がうれしかった。今年本紙にピュリツアー賞カメラマン、沢田教一さんの連載を書く機会に恵まれたが、記事に対する妻サタさんの感想だった。ベトナム戦争に批判的だった夫の思いをよく描いてくれたというのだ。そんな沢田さんを彷彿(ほうふつ)させる報道写真家が登場する映画がある。コッポラ監督の名作「地獄の黙示録」(1979年)。暴力と狂気に支配されたベトナム戦争の渦中でカメラマン役のデニス・ホッパーは叫ぶ。「米国は病んでいる」と。映画でもつぶさに描かれるが、米軍はゲリラの温床だとして農村を焼き払い、罪なき多くの住民を死に至らしめた。同じような事を日本は日中戦争で行い、今も外交上のしこりとなっている。ここで言いたいのは、同じ「病んでいた国」でありながら、米国はベトナム戦争を検証する映画を戦後数多く制作し、日本はそうしなかったということだ。この差は何だろう。「美しい国」づくりへひた走る安倍政権は、安保政策に前のめりだ。来年はベトナム戦争終結から40年、太平洋戦争は70年。過去を振り返るのに、絶好のタイミングだと思うのだが。(引用ここまで)
人質事件に便乗か 首相は早くも「安保法制」整備に前のめり 2015年2月3日 http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156901
安倍式「前のめり」論が憲法違反であることそのものが
侵略戦争の反省の上に制定された憲法の歴史に対する冒涜・反動なのに!
改憲を問う! 拝啓 安倍晋三様 あなたが「改憲」に前のめりになるのは筋が違いませんか? 2013年4月15日 法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/kaiken/backnumber/20130415.html
安倍さん、あなたは首相在任中の「憲法改正」に強い意欲を持っているそうですね。まずは国会による憲法改正案の発議を容易にする96条の「改正」から手がけるということは、あなた自身の口からも度々語られています。そして、同じように「改憲」を唱える「日本維新の会」に、参議院選挙後の連携を見据えて接近を図っているとも伝えられています。しかし、ちょっと待ってください。あなたがこのように「改憲」に前のめりになるのは筋が違いませんか?それは、次のような問題があるからです。
第一に、いまの国会の構成が、衆議院も参議院も「違憲」状態にある、ということです。昨年末の衆議院選挙については、全国で16件の「一票の格差」訴訟が起こされましたが、その16件の訴訟すべてにおいて各高等裁判所は「違憲」(14件)または「違憲状態」(2件)の判決を言い渡し、うち2件では選挙無効の宣告さえなされています。これだけ見事に「違憲」判断がそろい「合憲」判断は1件もなかったのですから、現在の衆議院の構成が「違憲」状態にあることは、もはや明白といわなければなりません。最高裁の判決ではないからといって無視することは、とうてい許されうる状況にはありません。また、参議院については、昨年10月の最高裁判決が「違憲状態」であると断じていますから、現在の参議院の構成もやはり「違憲」状態にあるということになります。
「違憲」の選挙は、本来無効です。これまで裁判所は、「違憲」と判断しても選挙じたいを無効とすることは避けてきましたが、それは、選挙を無効とした場合に生じるさまざまな問題を考慮してのことであり、「違憲」の選挙に正当性を認めたものではありません。まさにいろいろな「事情」を考慮して無効とすることは避けた(「事情判決」)、というだけであって、「違憲」の選挙は本来無効であるという原則そのものを変えたわけではないのです。ですから、「違憲」の選挙によって選ばれた現在の国会議員は、あなた自身も含めて、本来からいえば国会議員たりえないはずなのです。「違憲」の選挙は本来なら無効なのですから。
要するに、いまの国会は、衆議院も参議院も、本来なら無効であるはずの選挙によって選ばれた議員、つまり本来なら議員たりえないはずの議員によって構成されている、ということです。その意味で、いまの国会議員は「正当に選挙された代表者」(憲法前文)とは言いがたいのです。それでも議員としての地位が一応認められているのは、さまざまな事情を考慮した一種の「緊急避難」的措置としてのことに過ぎません。このような立場にある議員がなしうることは、選挙制度の違憲状態を解消したうえで憲法に反しない正当な選挙を速やかに実施することまで、と考えるべきでしょう。それまでの間、国民生活に支障を及ぼさないために必要最小限の国政事項を処理することは、「緊急避難」のうちに入ることとして認められるでしょう。しかし、そこまでです。とりわけ、憲法改正の発議のような国の枠組みの根幹にもかかわる事項は、本来なら国会議員たりえないはずの、正当性に瑕疵のある国会議員によって扱われてはならない事項の最たるものというべきです。そういう意味で、あなたがいま「改憲」を言うことは、まったく不適切なことなのです。
第二は、あなたが首相として「改憲」をめざすとしていることと憲法との整合性の問題です。言うまでもないことですが、内閣には憲法改正権はありません。憲法改正権は国民にあり、国民にのみ帰属します。「国民の代表」にも憲法改正権はありません。文字どおり「国民にのみ」あるのです。それは、憲法というものが、そもそも、「統治権に対する法的制限」を意図したものであり、「権力担当者に対する国民からの指示・命令」としての意味をもつものだからです。内閣および各大臣、国会および国会議員は、いずれも、憲法によって「制限される側」であり、国民から「指示・命令される側」に立っているのです。「制限される側」、「指示・命令される側」が、その制限や指示・命令の内容を自由に変えられるというのでは、制限も指示・命令もまったく無意味なものになります。だから、内閣に憲法改正権がないのは当然のことであり、また、国会も、「国民の代表者」によって構成される「国民代表機関」であっても、憲法改正権そのものはもちえないのです。
ただ、憲法は、国会が「国民代表機関」であることにかんがみ、国会に憲法改正の発議権を委ねています。この、国会の発議権は、憲法改正権は国民にのみあるという観点からいえば、国会が憲法改正を主導できるということを意味しません。国民の側から、具体的にここをこう改正すべきだという声が上がり、それについて国会で議論せよという声が高まったときにはじめて、国会はその国民の指示を受けて憲法改正原案をまとめ国民に提示する、というのが本来のあり方なのです。そうではなく、国会議員たちが「ここは自分たちにとって都合が悪いから変えたい」といって改憲発議をするのは、本来筋違いなのです。国会議員が改憲に前のめりになるべきではないのです。まして、憲法改正の発議権が委ねられているわけでもなく、なによりも政権担当者として統治権の中枢を担う内閣が憲法改正を主導することは、絶対に避けられなければなりません。それは、政権の都合のいいように憲法を変えることにつながりかねない行為であり、「統治権に対する法的制限」としての憲法の意味を大きく損なうこととなるからです。その意味で、あなたが首相として「改憲」をめざすというのは、筋が違うといわなければならないのです。
このように考えてくれば、憲法96条の国会による発議の要件を衆・参それぞれ総議員の「3分の2以上」から「過半数」に変えようというあなた方の企図には、重大な問題があることがわかると思います。「過半数」で発議できるということは、基本的には、ときどきの政権与党だけで改憲発議できるということを意味します。つまりこれは、政権の都合のいいように憲法を変えることをより容易にすることになります。ですから、この「改憲」は、「3分の2」か「過半数」かという単なる数字の問題ではなく、憲法の意味そのものを大きく損なうことにつながりかねないものなのです。あなたは、「憲法について国民に議論してもらう機会は多いほうがいい」ということを「過半数」にすべき理由の一つとしてあげているようですが、「憲法について国民に議論してもらう機会」を国会が提供するという発想自体、憲法改正は国会が主導すべきだという誤った考え方に立っているものといわなければなりません。かりにそのことを問わないとして、「過半数」にするという96条の変更をどうしてもやりたいというのであれば、同時に、政権に都合のいいような憲法変更の可能性をできるだけ防ぐため、政権与党は憲法改正原案を国会に提出できないこととする、といった制限を設けるべきでしょう。そこまでやるというのなら、あなた方の96条「改正」企図も、善意のものと受け止めましょう。それでも、その発想自体は誤っていると、私たちは考えますが…。(引用ここまで)