愛国者の邪論

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軍事抑止力優先主義こそが非軍事抑止力の憲法平和主義軽視と思考停止の元凶!毎日新聞編

2015-06-08 | 中東

憲法平和主義を活かした論陣を張らないのは何故か!

朝鮮半島も、東シナ海も、南シナ海も、インド洋も、

ホルムズ海峡も、ペルシャ湾も

安倍式積極的侵略主義ではなく

憲法9条具体化地帯にしないのは何故か!

東京新聞に続いて、毎日新聞です。ここでも、憲法を活かす!という思想と思考回路は微塵もありません!そこで検証してみます!ご覧ください。

 安保転換を問う 日本と中東 軍事への傾斜は危険だ

毎日新聞 2015/6/8 4:00
http://mainichi.jp/opinion/news/20150608k0000m070110000c.html

安全保障関連法案の審議は中東への取り組みが一つの焦点になっている。安倍政権がホルムズ海峡周辺で想定する機雷掃海はその典型だ。日本はペルシャ湾岸諸国の石油資源への依存度が高いので、湾内への出入り口(ホルムズ海峡)が機雷で封鎖されれば石油は途絶え、最終的には存立の危機に直面しかねない。政府はそんなふうに説明する。

政府の「説明」に対して、毎日の主張がありません!「日本は…直面しかねない」という「政府」の「説明」を紹介しながら、実は、毎日の見解・主張を披露しているのではないでしょうか。

ここに、毎日の世論誘導ぶりが浮き彫りになります。姑息です。

この「政府の説明」こそ、「ペルシャ湾・ホルムズ海峡は日本の生命線だ」論と言えます。「危機」論の煽動コピーです。何故、これが問題か、それは、この「生命線」論は、「石油資源への依存度」を「中東一辺倒依存主義」に陥らせているのです。

しかし、このようなことは、判っているのですから、本当に国民の生命、財産、安心安全、幸福追求権を切れ目なく守るというのであれば、他の対応策を採るのが、政権の責任であるはずです。そのような方策を採ることを想定していない、この「生命線」論は、安倍政権の無能無策を象徴しています!このことを指摘していない毎日の安倍政権応援団ぶりと思考停止が浮き彫りになります。

日本は1991年の湾岸戦争後、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣した。掃海の実績はある。だが、その時は停戦発効の2カ月後に掃海を始めた。安倍政権が停戦前の掃海も想定するなら、危険度は91年時とは比較にならぬほど大きくなる。

「停戦前の掃海も想定するなら」ということを前提とした「危険度」の指摘こそ、安倍首相の土俵で相撲をとっているというか、毎日のスタンスが浮き彫りになります。

中東において、湾岸戦争のような「戦争」「武力行使」を「想定」できれば、そうした「事態」が起こらないような外交をとるべきです。しかも、ペルシャ語やホルムズ海峡に機雷封鎖などという「作戦」をとる国家や「組織」が想定できるとしたら、どのような「国」「組織」でしょうか。もし、そのような「国家」や「組織」に対して、どのような外交対応をとるべきか、全く指摘されていません。

◇朝鮮戦争の貴重な教訓

朝鮮戦争での掃海作業が参考になろう。「朝鮮戦争全史」(和田春樹著)などによると、50年10月、米軍の強い要請で海上保安庁の掃海艇8隻が北朝鮮・元山沖の掃海に参加した。米軍は約40機の航空機で海域に爆弾を投下し、入念に機雷を破壊した上で自国の掃海艇を投入した。

それでも、すぐに2隻が機雷に触れて沈没し、別の船は陸から北朝鮮軍の砲撃を受けた。その数日後には日本の掃海艇1隻が機雷で大破し、乗員1人が行方不明(後に死亡と断定)になって18人が負傷した。翌日には韓国船が触雷して沈没した。

あまりに危険だった。日本の要員は話が違うと怒り、8隻中3隻が米軍の意向に逆らって帰国した。ある幹部要員は作業の危うさを「暴虎馮河(ひょうか)というか足下薄氷を渡るの感」と表現し「我々の能力以上のことを無理してやることは極めて危険である」と語っている(海上幕僚監部防衛部「朝鮮動乱特別掃海史」)。

65年も前の話をするのは、危ないことはやめようと言いたいからではない。ペルシャ湾での掃海が「能力以上」かどうかは意見が分かれよう。ただ、機雷封鎖が引き起こした武力抗争が続く間の掃海には重大な覚悟が必要だ。政府はその点をきちんと説明したかと言いたいのだ。

「危ないことはやめようと言いたいからではない」という指摘に毎日のスタンスが浮き彫りになります。毎日は、「重大な覚悟」について、「きちんと説明」すれば、「危ないこと」でも「やれ」と言っているのでしょうか。

これこそ、安倍式積極的主義、集団的自衛権行使と自衛隊の海外武力行使への追随と言えます。毎日の誤りは、そもそも、「機雷封鎖」以前の「事態」に対する日本政府の外交力問題については、何も語っていないのです。あるのは「危機」論あるのみです。

中東世界を見渡せば、過激派組織「イスラム国」(IS)が国境を越えて侵攻し、内戦や宗派対立も拡大して超カオスといわれる状態だ。ISが2人の日本人人質の殺害映像を公開し、「日本の悪夢の始まり」と宣言したことも含めて未曽有ともいえる地殻変動が進んでいる。

「中東世界を見渡せば…超カオスといわれる状態だ」という指摘こそ、解明されなければなりません。この「超カオス」の「事態」を創りだした最大の要因は、一体全体何だったのか、毎日は明らかにすべきです。すでに明らかなように、アメリカの違法なイラク戦争にあったことは、今や常識中の常識です。更に言えば、中東問題の本質は何か!第一次世界大戦以後の欧米の侵略主義をこそ、総括・検証しなければ、展望は見えてこないでしょう。

そのような歴史に対して、憲法9条を持つ日本の平和主義こそ、解決への展望を示すことになると確信するのものです。

中東地域にある資源主権の尊重と国家・民族・部族・宗派の対等平等性と自決権の尊重することでしか解決への展望を見い出すことはできません。このことを明記している日本憲法を使うことです。それは、非軍事的手段を使って解決するということです。そのためにも、まず停戦を呼びかける。その対話のテーブルを設定をするのです。そこでは、それぞれの利権と利益を出し合し、尊重しながら合意形成を獲得するのです。

それぞれの利権を活かしていくためには、日本の、そして欧米の技術などを使うのです。こうすることで、中東各地の諸民族・部族の生活改善に協力するのです。これは第一次世界大戦以後の欧米列強の戦争責任を果たして行くための重要な政策として位置付けるのです。

以上のような視点をまず確認できるよう、日本政府、安倍政権が提案をするのです。これは、あくまで公平中立を原則とするのです。様々な対立があるからこそ、ここで、同じテーブルにつくことの利点を強調するのです。ここには大国の利権は排除されなければなりません。この大国の利権排除が、決定的です。だkらこそ、憲法9条を持つ日本の役割が大きいと言えるのです。

和平会議の場所は、当然、ヒロシマ・ナガサキです。

他方、米オバマ政権は「米国は世界の警察官ではない」として中東への深入りを避ける傾向がある。次の政権の意向にもよるが、湾岸戦争以降の中東に定着した「パクス・アメリカーナ(米国による平和)」は実質的に終わったように見える。(引用ここまで

「オバマ大統領が中東への深入りを避ける傾向」「パクス・アメリカーナ」が「実質終わった」のは、何故か!毎日は語っていません!これこそ、米国の覇権主義・侵略主義、「軍事抑止力」論の破たんを示しています。中東地域を「超カオス」の「事態」に追い込んだ責任について、語っていません。

毎日の指摘するような「傾向」「実質的に終わったように見える「事態」があるからこそ、憲法9条を持つ日本の出番なのです。しかし、毎日は、この憲法9条を使うという言葉は一言も使っていません!思考停止「事態」と言えます。 


軍事抑止力優先主義こそが非軍事抑止力の憲法平和主義軽視と思考停止の元凶!東京新聞編

2015-06-08 | 憲法を暮らしに活かす

憲法平和主義を活かした論陣を張らないのは何故か!

朝鮮半島も東シナ海・南シナ海・インド洋もホルムズ海峡もペルシャ湾も

安倍式積極的侵略主義ではなく

憲法9条具体化地帯にしないのは何故か!

以下の社説が掲載されました。驚きました。そこで、以下、記事に即して検証してみました。ご覧ください。

日韓防衛協力 信頼構築へ交流重ねよ

中日/東京新聞 2015/6/8 8:00
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015060802000128.html

日本と韓国の防衛相が四年ぶりに会談した。両国は北朝鮮の核、ミサイルの脅威に直面しているが、歴史をめぐる国民感情もあり、自衛隊の活動にも関わる防衛協力は足踏みしている。

「両国は北朝鮮の核、ミサイルの脅威に直面している」というが、その「脅威」は、果たして事実でしょうか。東京新聞が、このような「危機」論をベースにして、朝鮮半島問題を捉えているとすると、集団的自衛権行使容認と自衛隊の海外派兵による武力行使に反対できないのではないでしょうか。以下検証いてみます。

しかも、「歴史をめぐる国民感情もある」と「北朝鮮の核、ミサイルの脅威」と同列においているのです。全く朝鮮・韓民族の感情に寄り添った言葉とは思えません!彼らにとっては、この「歴史をめぐる国民感情こそ」が問題なのです。

それは、1875年江華島事件と翌年の日朝修好条規調印から1904年の日韓議定書から一連の協約を経て1910年の併合条約、そして1945年光復節まで70年の民族の苦悩はどうだったか!それは現代の沖縄・琉球を視れば明らかです。

しかし、敗戦後の日本は対米従属の中で、非人道兵器である原爆投下の責任すら問うことなく、70年が過ぎてしまったのです。このような「民族感情」を想像できない社説であることが、改めて浮き彫りになりました。

中谷元・防衛相と韓国の韓民求国防相が先月末、シンガポールで会談し、中断している交流の再開を確認した。だが、各論では韓国は慎重姿勢を崩さなかった中谷氏は軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の早期締結の必要性を訴えたが、韓氏は「受け止める」とだけ答えた。協定は二〇一二年、署名直前まで進んだが、韓国世論の反発で棚上げされたままだ。

韓国国民が軍隊である自衛隊との「交流」をどのように考えているか、それは「皇軍」が、70年間何をしてきたのか、想像すれば、一目瞭然です。しかも、「皇軍兵士」にさせられて、どうなったか。そのような歴史の事実に対して「無頓着」を示せばしめすほど、韓国国民の中にどのような感情が芽生えて来るのか、想像力の欠落ぶりが浮き彫りです。

対米従属を問題としない、むしろ基地や「思いやり予算」を与えていること、それを正当化するメディアのアメリカ式民主主義礼賛イデオロギーによって日本国中が「汚染」されていることを反映しているといえます。それは、国際法に違反して行われたベトナム・イラク戦争に加担してもなお、日米軍事同盟を「抑止力」として容認し、戦後の平和と繁栄は「日米同盟」お「お陰」だと信じていることなどに象徴的です。

日韓は別々に米国と軍事情報を交換する協定を結んでいるが、二国間では法的拘束力が弱い覚書にとどまっている。北朝鮮がミサイルを発射した場合でも、日韓双方のレーダーによる追尾情報を迅速に共有できない状態が続く恐れがある。

この指摘は東京自身の指摘と言えます。これは日米軍事同盟を橋渡しにした集団的自衛権行使容認の既成事実化に加担するものと言えます。

万歩譲って北朝鮮の核、ミサイルを認めたとしても、それでは、そもそも、北朝鮮に、ミサイルを発射させない日本の外交政策はどうなっているのでしょうか。そのことを抜きした「危機」と「脅威」論の吹聴が、何をもたらしているか!

特に、90年代以降の北朝鮮政策を視れば一目瞭然です。このことは、徒に北朝鮮を悪者にしていると言われても仕方ありません。北朝鮮の「無法」に口実を与えるのではなく、日朝平壌宣言と六か国協議会、そして昨年の日朝合意、という一連の枠組みの具体化に向けて、どのように動いたか、です。

自衛隊と韓国軍が共同訓練や国連平和維持活動(PKO)で、水や食料、物品輸送などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACSA)についても、韓国側に慎重論が強い。

この指摘そのものは、日本から視れば、大問題です。軍隊ではない自衛隊が、軍隊である韓国軍と「共同訓練」を行うのは何故か!物品役務相互提供協定そのものが、集団的自衛権行使の既成事実化を謀っていると、誰が否定できるでしょうか。集団的自衛権行使と自衛隊の海外武力行使に反対している東京ではなかったのか!集団的自衛権行使と自衛隊の海外武力行使を容認する安保法制賛成の立場の読売の社説と、どこが違っているのか!驚きです!

 

読売新聞 日韓防衛相会談/安保協力強化の一歩となるか 2015/5/31 2:00
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20150530-OYT1T50130.html

 

新たな議題になったのは、国会で審議中の安全保障関連法案だ。防衛相会談で韓氏は日本の集団的自衛権行使を念頭に、韓国と関係があれば相談するよう注文した。中谷氏は韓国の同意なしに、自衛隊が韓国領に侵入することはない」と説明し理解を求めた。植民地時代をめぐる歴史認識で関係が冷え込み、首脳会談の見通しが立たない現状では、軍事分野で具体的な協力を進めるにはまだ壁が厚いといえよう。

「植民地時代をめぐる歴史認識」に対して誠実な態度を示していない中にあって、「韓国の同意なしに」などという口約束が、どれだけ信頼を得るでしょうか。しかも安倍首相の挑発的言動に対して、徹底した批判を展開していない日本のマスコミ界、日本国民なのです。誰が「自衛隊が韓国領に侵入することはない」などということを真に受けるのでしょうか。

そのことは日米合同委員会の「合意」を、いとも簡単に破棄している米軍を信用していない沖縄県民を視れば明らかです。北朝鮮に対する「不信感」を視れば一目瞭然です。こうした事実すら踏まえることなく、一方的に韓国側に問題があるかのような書き方、物言いにこそ、韓国国民の日本に対する『不信感』が助長されていくことを肝に銘じるべきです。

そもそも憲法違反の「軍事分野での具体的な協力を進める」立場を、これだけハッキリ示している東京の根底にあるのは「軍事抑止力」としての日米軍事同盟容認思想があります。これでは憲法を活かすという思想も思考回路も軽視されるのは当然です。両者は水と油なのです。しかし、そのような思考回路は、東京新聞には全くありません、以下をご覧ください。

それでも、防衛当局は北朝鮮の核、ミサイル開発抑止という緊急の課題について意見交換を続ける必要がある。併せて高官の相互訪問を増やし、海難事故の捜索、救援を想定した共同訓練を再開するなど、交流を重ねて信頼を積み上げていきたい。

「海難事故の捜索、救援を想定した」「自衛隊と韓国軍」の「共同訓練」こそ、本来の軍事行動、集団的自衛権の行使を想定した朝鮮半島における自衛隊の軍事行動と言えます。これこそ北朝鮮を想定した日韓軍事共同作戦と言えます。これでは、如何なる形態であっても、北朝鮮にとっては、「危機」であり「脅威」となることは明らかです。

このことは、東京新聞をはじめとした日本のマスコミが、北朝鮮の軍事行動、ミサイル訓練をどのように評価しているのか、このことを視れば、これまた一目瞭然です。ここには、「自分は正しいことをやっているが、それに反応する北朝鮮は問題だ」という一歩的な思想がいっそう浮き彫りになります。

「軍事抑止力」論の立場にたって、北朝鮮の「無法」を想定して「備えあれば憂いなし」論として、日韓軍事行動を切れ目なく実施できるようにしておく!まさに安倍式積極侵略主義の典型と言えます。

しかし、この思想は、北朝鮮にしてみれば、軍事挑発ということになり、日韓に対抗するために、同じ対応をする口実ともなるのです。ま、北朝鮮政府を挑発をすることで、軍事費を浪費させながら、一方では経済的圧力をかけていく。このことで北朝鮮を疲弊させて、金政権を崩壊させるという作戦と言えば、それも可能性としてはあるでしょう。

しかし、問題は、こうした作戦をとることで、何を否定していくか!それは憲法平和主義の具体化です。憲法9条の、国際紛争を解決する手段として、国家による戦争、武力行使、武力による威嚇=脅し=軍事抑止力は永久に放棄し、非軍事抑止力を使って、非軍事的手段を使って、解決するという『国是』の否定です。

これこそが軍事大国への道と言えます。

日本と韓国の対中政策に隔たりがあるのも、防衛協力を難しくしている。安倍政権は中国の尖閣諸島や南シナ海への進出を強くけん制するが、朴政権は、経済関係、北朝鮮に対する中国の影響力を考慮して刺激するのを避けている。

何故隔たりが出てくるか!侵略戦争と植民地主義に対する反省と謝罪・おわびと補償、そして二度と起こさないための具体的な装置を、憲法9条を具体化する外交路線と一体のものとして展開しなければならない日本政府と国民、それをマスコミとして検証して国民に問題提起をしなければならない社会の公器である東京新聞には、全く見えていません。

シンガポールではカーター米国防長官を加えた日米韓の防衛相会談も開かれた。オバマ政権は今後も仲介役を務め、三カ国の連携強化を促すとみられる。引用ここまで

この指摘こそ、日米軍事同盟を橋渡しにした日米韓軍共同軍事作戦、集団的自衛権行使と自衛隊の海外派兵の既成事実化加担ということになるでしょう。

日米軍事同盟を容認している東京新聞の、もう一つの側面が浮き彫りになりました。一面では真逆のことを書きながら、一方では、これまた真逆のことを書いているのです。

日本が朝鮮半島において、どのような役割を果たさなければならないのか。このことについては、すでに、たくさん記事にしてきましたので、ご覧ください。主な点をあげておきます。

1.侵略戦争と植民地主義について、どのような態度を取るか。

2.侵略戦争の反省の上に制定された憲法をどのように使うか。

3.日米軍事同盟ではなく、またアメリカの核の傘の下から脱却して、非核三原則を法制化する。

4.日本・韓国・北朝鮮・アメリカ・中国・ロシアの対等平等性を確認しながら、朝鮮戦争の停戦合意を実現する。

5.これらの国々との経済交流と文化交流を多様に発展させる。

6.北東アジア地域を非核地帯として憲法9条を活かした戦争放棄条約を締結する。


終戦直後の文部省の教科書「民主主義」を取り上げた下野新聞に大アッパレ!日本の民主主義の原点とは

2015-06-08 | 時代錯誤の安倍式教育再生

「米国の民主主義」ではなく「日本型民主主義」こそ!

以下の下野新聞の社説に以下の記事がありました。「米国の民主主義」と呼んで、安倍首相のデタラメ演説を想い出しました。

憲法が押し付けられたという安倍首相がアメリカ議会で押し付け憲法改正を論じなかった! 2015-05-03 09:16:15 | 憲法

 安倍首相『希望の同盟へ』米上下両院合同会議の演説全文(原文対訳付き)

 米国連邦議会上下両院合同会議における安倍内閣総理大臣 ... - 首相官邸 2015年4月29日http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0429enzetsu.html

おりしも、違憲法案が審議中ですが、安倍首相のポツダム宣言読んだない発言があり、安倍首相の侵略戦争無反省と正当化がいっそう浮き彫りになったなかで、また安倍首相の「教育再生」主義の強行のなかで、この文部省著作教科書『民主主義』をとりあげることは大変な意義があると思います。そこで、このタイムリ―な記事を、愛国者の邪論なりに考えてみることにしました。問題意識は、以下のとおりです。

1.ここで打ち出されている「民主主義」観が戦後自民党政治の中で形骸化されてきたことを考える。

2.安倍首相の打ち出す積極的平和主義=侵略主義と70年談話問題と結びつける。

3.この教科書とセットで発行された「あたらしい憲法のはなし」と一緒に考える。

4.ここで打ち出された「民主主義」が日本国憲法の中に位置づけられていることを確認しながら、これを活かしていくためには何が必要か、考える。

5.日本国憲法と民主主義は、外国の借り物ではなく、日本の歴史の中で構築されてきたことを考える。

6.この教科書で書かれている日本の「民主主義」を、日本国憲法を使って発展させる展望を考える。

7.特に、現在の自民党長期政権の打破と関係させることと、今後の展望を含めて「第11章 民主主義と独裁主義」にある「プロレタリアの独裁」「共産主義と民主主義」を踏まえて「日本型共産主義」について考える。

米国のデモクラシー

下野新聞/2015/6/8 10:06
http://www.shimotsuke.co.jp/special/raimei/201506/1984550

終戦直後に文部省が著作した「民主主義」という教科書があった。民主主義を日本再建の柱に据えようとの気概が感じられる本だ。「お手本」は当然米国なのだろうが、ことはそう単純でない

▼18世紀末の独立・憲法制定以降長い間、民主主義(デモクラシー)は米国では忌むべき思想と思われていた。建国の指導者の大半は「衆愚政治に堕する恐れのある単なるデモクラシー」に反対だった

▼南北戦争後に共和党は党綱領で「南部のデモクラシー」に触れたが、敵対する民主党が南部で黒人差別を行っていることを非難したもの。共和党にとってデモクラシーは「民主党支配の政治」のことであり、「主権在民の政治」との認識はなかった

▼大正大の倉島節尚(くらしまときひさ)名誉教授によると、日本でも戦前の国語辞典「大言海」は民主主義を「下流の人民」による政治、と説明した。変化が起きたのは、1933年に民主党のルーズベルト大統領が就任してから。大戦を挟んで半世紀の間、民主党優位の時代が続いた

▼民主主義はようやく米国を象徴する理念として定着し始める。共和党が初めて党綱領で民主主義を肯定的に評価したのは米ソ冷戦のさなか、60年の大統領選挙の時だ

▼教科書「民主主義」が発行されてから十数年後だ。日本は国是としての民主主義を米国より先に取り入れたのかも。引用ここまで

文部省「民主主義」には何が書かれているか!

文部省著作教科書「民主主義」を読んで 2012年09月29日 http://blog.livedoor.jp/dammats/tag/%E6%96%87%E9%83%A8%E7%9C%81%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%80%8C%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7

第1章 民主主義の本質

第2章 民主主義の発達

第3章 民主主義の諸制度

第4章 選挙権

第5章 多数決

第6章 目ざめた有権者

第7章 政治と国民

第8章 社会生活における民主主義

第9章 経済生活における民主主義

第10章 民主主義と労働組合

第11章 民主主義と独裁主義

第12章 日本における民主主義の歴史

明治初年の自由民権運動 日本で「公議輿論」に基づく政治の発端となったのは、奇しくもペリー来航だった。公議輿論を尊重する機運は、明治政府にも引き継がれた。「四民平等」も民主主義の前進であった。その後、欧米の民主主義や議会制度に対する理解も進み、自由民権運動が盛り上がった。

明治憲法の制定 大日本帝国憲法」は、プロシアをはじめドイツの国々の憲法を土台に草案が起草され、明治22年2月11日に発布、翌明治23年11月29日から施行された。アジアとしては最初の近代的成文憲法であった。日本は立憲君主国としての歩みを始めたのである。

明治憲法の内容 明治憲法は「欽定憲法」である。主権は天皇に存するため、その制定はおろか改正にも国民は参加できなかった。しかし、この憲法には、「天皇の政治」という建前を崩さない限り、民主主義の要素は相当に盛り込まれていた。しかしその一方で、民主主義の発達を抑え、独裁政治を行うことも不可能ではないような「隙」が数多くあったことも否定できない。

日本における政党政治 明治憲法が施行された当初は、多数党をも無視して政治を行う「超然内閣」が主流であった。しかし、政党が力を付け、超然内閣では議会の収拾が困難になると、やがて「政党政治」の時代が訪れた。当時の政治の実権は、依然元老の手にあったが、大正14年に25歳以上の男子には原則として選挙権を認めるという普通選挙法が成立し、最初の総選挙では初めて無産政党も加わった。

政党政治の末路 次第に発達してきた日本の民主主義が破綻した原因は主に3つある。第一に政党政治の腐敗、第二に左翼思想の弾圧に伴う右翼勢力の強まり、第三に軍部の台頭である。当時はテロやクーデターが多発しており、その都度、政治の要人が暗殺されていた。かくして軍閥は独裁体制を確立していき、ついには太平洋戦争にまで拡大されるに至った。

第13章 新憲法に現れた民主主義

日本国憲法の成立 戦後の日本の政治形態を、ポツダム宣言の示した方針に従って確立するには憲法が必要であった。しかし、先述の通り明治憲法は欽定憲法である上に、民主主義の発達を妨げる様々な制度を含んでいたため、憲法を根本から改めることとなり、紆余曲折を経て「日本国憲法」が制定された。

国民の主権 新憲法では主権者は天皇から国民に変更された。われら国民は、もはや臣民ではなく、自由で平等な国民として、自ら主権者となった。一方、天皇は単なる象徴となり、何らの政治的権力を持たなくなった。

国会中心主義 国会は唯一の立法機関であり、立法に際して他の国家機関の協力を必要としない点、国会以外に法律を作ることができる国家機関は存在しない点が、明治憲法とは根本から異なる点である。また、国会は内閣よりも優越した地位を占めており、内閣総理大臣は国会の指名が必要となる。

違憲立法の審査 最高裁判所は、司法権を行使するだけでなく、「違憲立法審査権」をも有している。新憲法では、最高裁判所の裁判官は、10年毎に「国民審査」を受けなければならず、不適任票多数の場合は罷免される。

国民の基本的権利 民主主義は、自立の精神と自助の態度を重んずる。よって、国民の基本的権利を平等に保護し、他人の自由を侵さない限度において各人の人間としての自由を確立する必要がある。そこで、新憲法では、言論の自由・信教の自由・恐怖からの自由・欠乏からの自由などを保障している。

第14章 民主主義の学び方

第15章 日本婦人の新しい権利と責任

第16章 国際社会における民主主義

民主主義と世界平和 民主主義は、世界平和の最も大切な条件となる。なぜならば、民主主義は「国民の政治」であり、国民の多数の意志が政治を動かす仕組みになっていれば、戦争の起こる恐れは非常に少なくなるからである。

国際民主主義と国際連合 「国際連合」は、国際平和の維持を主たる目的とし、経済的・社会的な国際協力を増進しようとする国際組織である。国際連合は、国際連盟に比べると、「安全保障」という点ではるかに強力な制度を備えている。「安全保障理事会」がそれであるが、原則として多数決原理を採用しているにもかかわらず、「大国の拒否権」が認められている。そこで最近では、法律上の拘束力はないものの、国際紛争を「総会」で処理しようとする傾向が生じてきている。また、「経済社会理事会」では国際的な経済・社会・文化・教育・保健の問題についての委員会が設けられて、これらの問題を研究し、それに基づいて総会屋加盟国に対する勧告が行われる。

世界国家の問題 世界国家の思想は古くから存在した。すべての国家が国際法に従い、相互の協約を重んじ、あい携えて平和の維持に協力すべき義務を負っていることは確かだが、現実の問題としては、容易に乗り越えることができない難関が横たわっている。形の上での世界国家の建設よりも、真の民主主義の精神を全世界に広める方が先決であるというべきであろう。

ユネスコ これまで試みられた平和のための努力は、あまりにも政治的な方面にのみ傾き過ぎていた。人間の精神の奥底に平和の鍵を求めることは、今までおろそかにされてきただけに、これからは最も力を注ぐべき仕事であると言えよう。「ユネスコ」は、教育・科学および文化を通じて国際平和に貢献することを目的とする国際協力の組織である。

日本の前途 「戦争の放棄」に対する不安には、国々の協力を信頼し、全力をあげて経済の再興と文化の建設に努めていくほかはない。「狭い国土」に対する不安には、わが国の技術と勤勉、加えて科学の力を活用すれば、海外貿易とあいまって日本国民の経済生活の前途にも明るい希望が輝くであろう。日本国民は、このような文化国家建設への不屈の意志を持って、ひたすらに民主主義的な国際協力の道につき進んでいかなければならない。

第17章 民主主義のもたらすもの

民主主義は何をもたらすか 国民が心を合わせて民主主義的な生活を実行していくためには、民主主義は国民の将来に対して何を約束するか、民主主義のもたらすものは何であるかを、はっきりとつかんでおくことが必要である。

民主主義の原動力 民主主義の原動力は、国民の、自分自身に対する信頼の精神である。自分自身に対する信頼を失った国民は、必ず他力本願の独裁主義に走る。民主主義は国民自らが築く。民主主義のもたらすものは、国民自らの努力のもたらすものにほかならない。生存と幸福と繁栄を求める意欲が、あらゆる人間生活の原動力であるという事実こそ、民主主義によって何がもたらされるかを最も確かに約束する。

民主主義のなしうること 天然資源に乏しく人口過剰に大きな悩みをもつ日本の再建は多難を極めるだろう。しかし、困難な現実を直視しつつ、それをいかに打開するかを工夫し、努力することによってのみ、創造と建設は行われる。そうして、国民こぞっての努力に、筋道と組織とを与えるものが、民主主義なのである。

協同の力 民主主義は、無から有を作りあげることはできない。しかし、一見不可能のようなことを可能ならしめる力を持っている。それは、協同の力であり、組織の力である。

討論と実行 意見の対立も、対立する意見の間の争いも、国民が協同の力を発揮して困難に打ち勝つための討論の範囲を越えてはならない。それが、民主主義の規律である。議論するのもよい。が、まず働こう。やってみよう。(引用ここまで

文部省著作教科書『民主主義(上・下)』(1948・1949年刊)

(1)【学校教育の刷新】(第十四章 民主主義の学び方、二)

http://university.main.jp/blog3/archives/2006/11/19481949.html

・・・(略)・・・これまでの日本の教育は、一口でいえば、「上から教えこむ」教育であり、「詰めこみ教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して、試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分で真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のものにするためではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。そのような受け身の教育や、手段としての勉強では、身についた学問はできない。それどころか、多くの人々は、試験が済んだり、学校を出たりすると、それまで勉強したことの大半は忘れてしまうというふうでさえあった。

そのうえに、もっと悪いことには、これまでの日本の教育には、政府のさしずによって動かされるところが多かった。だから、自由な考え方で、自主独往の人物を作るための教育をしようとする学校や先生があっても、そういう教育方針を実現することはきわめて困難であった。しかも政府はこのような教育を通じて、特に誤った歴史教育を通じて生徒に日本を神国であると思いこませようとし、はては、学校に軍事教練を取り入れることを強制した。「長いものに巻かれろ」という封建思想は、教育者の中にも残っていたし、政府の権力は反対を許さないほどに強いものであったために、日本の教育は「上からの権威」によって思うとおりに左右されるようになり、たまたま強く学問の自由を守ろうとした学者は、つぎつぎに大学の教壇から追われてしまった。このようにして、政治によってゆがめられた教育を通じて、太平洋戦争を頂点とする日本の悲劇が着々として用意されていったのである。

がんらい、そのときの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。そのような自主的精神に富んだ国民によって形作られた社会は、人々の協力によってだんだんと明るい、住みよいものとなっていくであろう。そういう国民が、国の問題を自分自身の問題として、他の人々と力を合わせてそれを解決するように努力すれば、しぜんとほんとうの民主政治が行われるであろう。制度だけが民主主義的に完備しても、それを運用する人が民主主義の精神を自分のものにしていないようでは、よい結果はけっして生まれてこない。教育の重要さは、まさにそこにある。

ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹きこまれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。

公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。それは、自分の受け持っている立場から、いうべきことは堂々と主張すると同時に、自分のしなければならないことを、常に誠実に実行する心構えである。社会共同の生活を営むすべての個人は、それぞれその受け持つ仕事を誠意をもってやりとげていく責任がある。人々が、おのおのその責任を重んじ、そのうえでお互に信頼しあい、協力しあうのでなければ、民主主義の理想はとうてい実現できない。その意味で、われわれは、日本人をこれまで支配してきた「縦の道徳」の代わりに、責任と信頼とによって人々を結ぶ「横の道徳」を確立していかなければならない。・(引用ここまで

文部省著作教科書民主主義」(抜粋)http://homepage3.nifty.com/yeonso/edu3.htm

「あたらしい憲法のはなし」には何が書かれているか!

文部省『あたらしい憲法のはなし』 http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

二 民主主義とは

こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほう/″\できいたでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
 みなさんがおゝぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事をきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおゝぜいの意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おゝぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
國を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で國を治めてゆくのは、よくないのです。國民ぜんたいの意見で、國を治めてゆくのがいちばんよいのです。つまり國民ぜんたいが、國を治めてゆく――これが民主主義の治めかたです。
しかし國は、みなさんの学級とはちがいます。國民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとり/\の意見をきいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、國の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが國会です。國民が、國会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、國を治めてゆく者をえらぶのです。だから國会では、なんでも、國民の代わりである議員のおゝぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが國民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、國民ぜんたいで、國を治めてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で國を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また國もさかえてゆくでしょう。
國は大きいので、このように國の仕事を國会の議員にまかせてきめてゆきますから、國会は國民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、國民ぜんたいで國を治めてゆくことですが、國会が國民ぜんたいを代表して、國のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。
しかしいちばん大事なことは、國会にまかせておかないで、國民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、國会だけできめないで、國民ひとり/\が、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、國民が直接に國のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民主主義と、二つのやりかたで國を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。
みなさんは日本國民のひとりです。しかしまだこどもです。國のことは、みなさんが二十歳になって、はじめてきめてゆくことができるのです。國会の議員をえらぶのも、國のことについて投票するのも、みなさんが二十歳になってはじめてできることです。みなさんのおにいさんや、おねえさんには、二十歳以上の方もおいででしょう。そのおにいさんやおねえさんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、みなさんはどんな氣がしましたか。いまのうちに、よく勉強して、國を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、國のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。みなさんの考えとはたらきで國が治まってゆくのです。みんながなかよく、じぶんで、じぶんの國のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです。

三 國際平和主義

國の中で、國民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、國民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おゝぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく國の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。

これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの國にたいしても國際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。この國際平和主義をわすれて、じぶんの國のことばかり考えていたので、とうとう戰爭をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この國際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戰爭の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。

六 戰爭の放棄

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。

十五 最高法規

 

このおはなしのいちばんはじめに申しましたように、「最高法規」とは、國でいちばん高い位にある規則で、つまり憲法のことです。この最高法規としての憲法には、國の仕事のやりかたをきめた規則と、國民の基本的人権をきめた規則と、二つあることもおはなししました。この中で、國民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七條は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろ/\のことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。
 憲法は、國の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。
 このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、國務大臣も、國会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。また、日本の國がほかの國ととりきめた約束(これを「條約」といいます)も、國と國とが交際してゆくについてできた規則(これを「國際法規」といいます)も、日本の國は、まごころから守ってゆくということを、憲法できめました。
 みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。(引用ここまで


滋賀日報と違って志位VS安倍質疑の肝心要をスルーする毎日の日米軍事同盟容認論が憲法否定の温床!

2015-06-08 | マスコミと民主主義

憲法9条を歯止めにしない毎日の社説に視る安倍追随思想!

人権擁護思想を土台とした憲法平和主義

国際紛争を解決する手段として使うべき手段は

「対話と交流」「平和的手段」「非軍事抑止力」を使って

「軍事抑止力」論を永久に放棄する!

この思想を土台にしない思想と政策が

憲法否定の既成事実化を容認してきた!

安倍政権を批判しているようでいながら

安倍首相の手法=手口を批判しているだけにすぎません!

姑息な手口浮き彫りに!

以下の毎日の社説を読むと、滋賀日報の社説と違って、日本共産党志位和夫委員長と安倍首相の質疑をスルーしていることが判ります!それは毎日が日米軍事同盟を容認し、日米軍事同盟を深化させる安倍政権と同じ方向を向いているからです。毎日のスタンスは、自らも発言しているように、安倍首相の手法=手口を批判しているだけにすぎません。だから、志位氏の主張は詳しく記事には書けないのでしょう。少なくとも、そのように言われても仕方のないやり方と書き方が、以下の記事と言えます。

「米国が間違った戦争を始め」「国際法に違反する』戦争をした場合には、米国に追随するのではなく、憲法平和主義を持つ国として、キッパリ批判し、紛争の平和的解決を呼びかければ良いのですが、毎日の書き方は、「日本が米国の要請に『ノー』と言えるのか、懸念をぬぐえない」と言いながら、米国が「正当性を疑われる戦争をし、それが集団的自衛権行使の新3要件にあてはまる場合、日本はどうするのか。機雷掃海を求められたら、協力するのか」などと、キッパリ言えとは言わないのです。毎日は「首相は、米国の戦争に巻き込まれることは『絶対にあり得ない』と断言するが、具体的ケースについては直接、答えようとしない」という安倍首相を憲法平和主義を尊重擁護の立場から断罪していません。

 

だから「米国から後方支援を求められ」ても憲法平和主義擁護の立場から、「拒否しろ」とは言っていません!「事態として認定できない場合はどうするのか。疑問は尽きない」と言っているだけです。「これまでは憲法の制約を理由に、米国に協力できないと言えた」のであれば、そのようにしなければなりません。

しかし、新法制に基本的に賛成の立場の毎日は、この「新法制では制約が取り払われ、政府が主体的に判断することになる」として、この間の「国際法に違反する」アメリカの違法な戦争に対して「反対した例はない」という事実がありながら、それを顧みることなく、「評価」するのです。ここに志位質疑をきちんと取り上げない毎日のスタンスが浮き彫りになります。

しかも「国会も承認するか否かの責任を負う」と、法案提出者である安倍政権を免罪するのです。更に毎日は「米国に追随するのでなく、信頼して判断を任せられる政府と国会でなければ、新法制は機能しない」と、ここでも、これまで「米国に追随」していた事実をスルーしておいて、「新法制は機能しない」などと、「新法制」の「機能」を「前提」として、志位VS安倍質疑で浮き彫りになった「米国追随」の戦後史を批判、検証することなく、社説をまとめているのです。

こうした日米軍事同盟容認の思想こそが、今日の「事態」を醸成させてきたことを、声を大にして告発しておかなければなりません!憲法否定の既成事実化を容認し加担してきたことを!

そうした姿勢が3人の憲法学者や、多くの憲法研究者たちの主張によって、どのようになっているか、このことを視れば、毎日のスタンスはどうか、一目瞭然です。

憲法9条を活かす!これこそが人権擁護思想を根本原理として構築された憲法を不断の努力で活かすことになるし、憲法尊重擁護の義務を履行することになるのです。

最近の日本の政治風潮は、物事の関連はスルーしておいて、その場その場の、場当たり、その場しのぎの思考回路に、国民を持ち込むことが多すぎます。こうした手口は、戦前の参謀本部の戦争指導、天皇制政府の政治手法の失敗で明らかです。しかし、こうした手口と手法を教訓としてこなかった自民党政権こそが、そして、それを垂れ流してきたマスコミが、今日の憲法否定の事態の混迷をつくりだしていると言えます。このことを最後に強調しておきます。では、ご覧ください!

安保転換を問う・米軍協力の当否

毎日新聞/2015/5/29 4:00
http://mainichi.jp/opinion/news/20150529k0000m070176000c.html

◇主体的に判断できるか

米国が間違った戦争を始め、自衛隊に協力を求めてきたら、日本は断れるのか。そのことが、安全保障関連法案の国会審議で、論点になっている安倍晋三首相は、米国に言われるままに武力を行使することはなく、主体的に判断するという。

首相の説明によるとこれまで米国の武力行使に対し、日本が国際法に違反するとして反対した例はない。ただ、米国によるグレナダ侵攻(1983年)とパナマ侵攻(89年)の際は、遺憾の意を表明した。

岸田文雄外相はおとといの国会質疑で、日米同盟に深刻な影響があることが集団的自衛権行使の要件になるかを問われ「日米同盟に何らかの影響が及ぶことが即、新3要件に該当するものではない」と語った。しかし、昨年7月の国会では日米同盟は我が国の平和と安定を維持する上で重要だ。新3要件に該当する可能性は高い」と述べた。日米同盟のためには常に集団的自衛権を行使できるという考えを示したと受け取られ、物議を醸した。

そうした経緯を考えると、日本が米国の要請に「ノー」と言えるのか、懸念をぬぐえない。

先制攻撃は国際法で禁止されているが、米国は必ずしも先制攻撃を否定していない。政府は先制攻撃は国際法違反であり、日本が集団的自衛権を行使して支援することはないとしているただ、言い回しは微妙で、首相は違法とされる先制攻撃を支援することはない」、岸田氏は着手の時点がいつかなど、厳密な議論が存在する」と語り、違法と判断されるかどうかで対応が変わるとも受け取れる。

米国がイラク戦争のように正当性を疑われる戦争をし、それが集団的自衛権行使の新3要件にあてはまる場合、日本はどうするのか。機雷掃海を求められたら、協力するのか。

首相は、米国の戦争に巻き込まれることは「絶対にあり得ない」と断言するが、具体的ケースについては直接、答えようとしない。

集団的自衛権だけではない。重要影響事態法案では、政府が日本の安全に影響を与えると判断すれば、自衛隊は世界中で米軍などに後方支援ができる。米国から後方支援を求められ、事態として認定できない場合はどうするのか。疑問は尽きない。これまでは憲法の制約を理由に、米国に協力できないと言えた。しかし、新法制では制約が取り払われ、政府が主体的に判断することになる。国会も承認するか否かの責任を負う。米国に追随するのでなく、信頼して判断を任せられる政府と国会でなければ、新法制は機能しない。(引用ここまで


米国の侵略戦争に反対もしなかった自民党政権を断罪した志位質疑を社説にした滋賀日報に大アッパレ!

2015-06-08 | マスコミと民主主義

滋賀日報に大アッパレを送りながらも

「日本や米英らの誤りを認め陳謝する」

誰に向かって「陳謝」するのか!

「陳謝」してどうするのか!

「ねつ造」の「誤った戦争」のために

憲法9条の解釈を改悪してきた責任と対応をどうするか!

憲法9条の原点に戻って議論し、9条を具体化すべし!

ここが日本の最大の課題ではないのか!

以下の滋賀日報の記事を読んで、まずアッパレを送りたいと思います。志位VS安倍質疑を社説で論じたのは、極めて稀だからです。日本の新聞・テレビは、日本共産党を隠ぺいして当たり前の風潮があります。そのことが日本共産党とソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党をいっしょくたに、ごった煮させて国民に食べさせている役割を果たしていることを指摘しない訳にはいきません!

これは、憲法の表現の自由、検閲の禁止、放送法の中立公平の思想から大きくかけ離れたもの、自由と民主主義に反する行為だと言わなければなりません。このことは共産党を支持しようが、しまいが一致できることです。それは中国共産党と朝鮮労働党が厳しい情報管理を行っていることに対して、厳しい批判を行っている日本のマスコミをもってすれば、当たり前のことです。

しかし、その日本のマスコミが、日本の政治報道になると、とたんに中国共産党と朝鮮労働党を批判している、その筆をおいてしまうという珍現象が起こるのです。そもそも資本主義は自由と民主主義、法の支配を価値観とする社会であることは、安倍首相が枕詞としていることから、国民の耳にはタコができてしまうほど、周知の事実なことです。しかし、その言葉を使って、日本共産党を報道することは、極めて希少なこととなっているなかで、以下の滋賀日報の記事は称讃されるものです。中身はともかくとしても。

安倍首相はイラク戦争の誤りをきちんと認めよ

滋賀報知/2015/6/2 0:06
http://www.shigahochi.co.jp/search.php?type=editorial&run=true&sort=open_time&sort_PAL[]=desc&

集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案の審議のため先月二十八日に開かれた衆院特別委員会で、共産党の志位和夫委員長は、米国によるグレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻について国連が非難決議をしているのに、日本は「理解する」という立場で、米国の軍事介入に一度も反対せず、全部、賛成・支持・理解だったと指摘。

さらにベトナム戦争では北爆の口実とされたトンキン湾事件がねつ造であったことが明白となり、イラク戦争では大量破壊兵器が見つからなかった。この誤った戦争を日本は支持し、イラク戦争では自衛隊を派遣した。このような米国追随外交では、国際法上認められない先制攻撃であっても、米国に言われるまま戦争に協力させられるのは自明の理だと政府に詰め寄った。

集団的自衛権の行使容認の条件となるのが、新三要件である。日本が直接攻撃を受けた場合でなくても、日本と密接な関係にある他国(米国など)が武力攻撃されて、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」と政府が判断すれば海外で武力行使ができる。時の政府の裁量次第なのだ。

安保法案に理解を得ようとするなら、まず安倍首相がイラク戦争に対する日本や米英らの誤りを認め陳謝することから始めるべきだ。そうでないと同法案は日米防衛指針のためのものと言わざるを得なくなるからだ。(引用ここまで

具体的に検証する場合は以下をご覧ください!

戦争法案の国会質疑  https://www.youtube.com/playlist?list=PL3M7AtnZgh3U41I_9TybULqo1e-H5dluu

米国の戦争に「ノー」と言えない政府 集団的自衛権問題の核心はここに/志位委員長が会見 [2015.5.29]

米国の侵略戦争支持、反省も検証もなくていいのか/衆院特別委 志位委員長の質問 [2015.5.29]

究極の対米追随 うきぼりに/衆院特別委 志位委員長が連続追及 集団的自衛権 侵略国の仲間入り許せない [2015.5.29]

戦争法案 新たなごまかし/「戦闘行為がないと見込まれる場所」/法的根拠も検証もなし [2015.5.29]

後方支援 明らかになった「武力行使」の実態/特別委質問 志位委員長が会見 [2015.5.28]

戦闘の危険 決定的に高まる 「兵たん」は戦争行為の一部/衆院特別委 志位委員長の質問 [2015.5.28]

首相、自衛隊への攻撃 武器使用認める/衆院特別委 志位委員長が追及/「後方支援」は武力行使と一体 戦争法案の危険性 浮きぼりに [2015.5.28]