![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/f9/109e30f829f51fcfbc58988625bdd5ad.jpg)
横浜開港資料館の「明治天皇、横濱へ―宮内庁文書が語る地域史―」展を見る。
明治天皇と横浜との関わりを、現存する公文書や古写真を通して紹介した企画展だが、それらのカタイ文書からでは到底窺ひ知れぬ明治天皇の“生の姿”を写した一枚に、わたしは強い興味を覚える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/41/db709c0272cd2e7c9781fd86a77a39ec.jpg)
これは展示図録からの転写だが、説明文によると、明治4年(1871年)11月21日から23日にかけて横須賀の造船所に行幸した天皇一行を、スチルフリードといふオーストリア人写真家が、無断で撮影したものだと云ふ。
つまり、“盗撮”といふことだらうか。
白い衣冠姿の人物が、明治天皇。
そのまわりには、地面にしゃがみこむ従者たち。
まさか写真に撮られてゐるなどと夢にも思わぬ一行は、だいぶくつろひだ雰囲気だ。
たぶん、休憩中のところを撮ったのだらう。
ちなみにこれが、今のところ明治天皇を撮った最初の写真とされてゐる。
それにしても、この古写真から見る明治天皇の姿は、現在公式に伝わってゐる宸影とは、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/bb/846f0359da0b3abb0db874928ac07d73.jpg)
だいぶ雰囲気が異なっていて、戸惑ひすら覚える。
かつて慶応3年(1867年)、「王政復古の大号令」後の小御所会議で山内容堂が、
「幼冲の天子」
と口走ったことは有名だが、この姿を見るかぎり、その気持ちもわからなくはない。
しかしわたしは、一部の歴史マニアどもが唱へる“明治天皇替え玉説”などといった下衆ならでは勘繰りなど、歯牙にもかけぬ。
しょせん、
「明治大帝」だの
「軍人の神」だの、
さうした天皇像は、異国かぶれの取り巻きたちが仕立て上げた、虚像にすぎないのだ……。
明治天皇と横浜との関わりを、現存する公文書や古写真を通して紹介した企画展だが、それらのカタイ文書からでは到底窺ひ知れぬ明治天皇の“生の姿”を写した一枚に、わたしは強い興味を覚える。
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これは展示図録からの転写だが、説明文によると、明治4年(1871年)11月21日から23日にかけて横須賀の造船所に行幸した天皇一行を、スチルフリードといふオーストリア人写真家が、無断で撮影したものだと云ふ。
つまり、“盗撮”といふことだらうか。
白い衣冠姿の人物が、明治天皇。
そのまわりには、地面にしゃがみこむ従者たち。
まさか写真に撮られてゐるなどと夢にも思わぬ一行は、だいぶくつろひだ雰囲気だ。
たぶん、休憩中のところを撮ったのだらう。
ちなみにこれが、今のところ明治天皇を撮った最初の写真とされてゐる。
それにしても、この古写真から見る明治天皇の姿は、現在公式に伝わってゐる宸影とは、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/bb/846f0359da0b3abb0db874928ac07d73.jpg)
だいぶ雰囲気が異なっていて、戸惑ひすら覚える。
かつて慶応3年(1867年)、「王政復古の大号令」後の小御所会議で山内容堂が、
「幼冲の天子」
と口走ったことは有名だが、この姿を見るかぎり、その気持ちもわからなくはない。
しかしわたしは、一部の歴史マニアどもが唱へる“明治天皇替え玉説”などといった下衆ならでは勘繰りなど、歯牙にもかけぬ。
しょせん、
「明治大帝」だの
「軍人の神」だの、
さうした天皇像は、異国かぶれの取り巻きたちが仕立て上げた、虚像にすぎないのだ……。