東急の二子玉川園驛──敢へて昔の驛名で言はせていただく──で下車したつひでに、玉電の支線だった砧線の痕跡をちょっと訪ねてみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/aa/72725178776ff597a0db1d8526665200.jpg?1576113973)
二子玉川園跡地に展開する二子玉川RIZEには、玉電が廃止された昭和四十四年(1969年)に開業した玉川高島屋の上空写真が掲示されてゐる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/95/01a4c38962e8482a4801370acba0b532.jpg?1576114482)
写真の右下には、廃止から間もない砧線の線路跡がハッキリと写ってゐる!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/43/748c95fd01720a49545180ce8d95bdf2.jpg?1576116512)
そこは現在の世田谷区玉川2-24あたりで、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/a6/49e9839c674ab91af6a3a53e6cf462f4.jpg?1576119337)
道路がかつての線路跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a1/cd21c90ab877a18553fc0c6d18274ae1.jpg?1576119973)
しかし境界の柵がかつての線路そのままにカーブを描ひており、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/3a/c9d9f236fbeb2a7d5ad08c2fd8d1c865.jpg?1576120015)
線路跡の立体駐車場も湾曲して建ってゐるところに、往年の面影が見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/25/7a5271c31222d960b9273bb0c41bf4ae.jpg?1576120403)
それはちゃうど砧線の線路沿ひに建ってゐたことになり、かつて晩年の玉電の姿と音に接してゐたかと思ふと、貴重な生き証人に会ったやうな気がする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/aa/72725178776ff597a0db1d8526665200.jpg?1576113973)
二子玉川園跡地に展開する二子玉川RIZEには、玉電が廃止された昭和四十四年(1969年)に開業した玉川高島屋の上空写真が掲示されてゐる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/95/01a4c38962e8482a4801370acba0b532.jpg?1576114482)
写真の右下には、廃止から間もない砧線の線路跡がハッキリと写ってゐる!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/43/748c95fd01720a49545180ce8d95bdf2.jpg?1576116512)
そこは現在の世田谷区玉川2-24あたりで、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/a6/49e9839c674ab91af6a3a53e6cf462f4.jpg?1576119337)
道路がかつての線路跡。
その先が曲線部分だが、いまは建物と木立があって立ち入りは不可。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a1/cd21c90ab877a18553fc0c6d18274ae1.jpg?1576119973)
しかし境界の柵がかつての線路そのままにカーブを描ひており、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/3a/c9d9f236fbeb2a7d5ad08c2fd8d1c865.jpg?1576120015)
線路跡の立体駐車場も湾曲して建ってゐるところに、往年の面影が見られる。
まう少し先へ進むと、1965年、つまり玉電廃止の四年前に開業したビジネスホテルの入口が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/25/7a5271c31222d960b9273bb0c41bf4ae.jpg?1576120403)
それはちゃうど砧線の線路沿ひに建ってゐたことになり、かつて晩年の玉電の姿と音に接してゐたかと思ふと、貴重な生き証人に会ったやうな気がする。
學生時代、用賀驛から玉電を利用してゐた父も砧線のことはよく憶えてゐたが、なぜか勘違ひをして「たぬき線」と言ふのが可笑しかったのを、いま思ひ出した。