その驛の御手洗は、洗面台がニつ並んでゐる。
私が左側の洗面台で手を洗わうとすると、その前にいた十代後半とおぼしき男の子が、二つの洗面台の真ん中に立ち、右手を右側の蛇口に、左手を左側の蛇口に差し出して、指を洗ひはじめた。
目の前で手を出された私は自分の手を洗ふことが出来ず、「嫌がらせか……!?」と不快感を込めて鏡越しに相手を見て、私は彼が障がゐ者であることに気が付ひた。
彼は、すぐ後ろに人がゐることには気が付ひていなかった。
惡意(わざと)ではない──
私の不快感はすっと消へた。
これが健常者であったならば、とんでもない迷惑行為だ。
しかしその彼の場合、ニつ並んだ洗面台が、右手用と左手用にそれぞれ設置されてゐると映ったやうだった。
むしろ私は、彼のその独特な感性を、興味深く思った。
ものの見方、感じ方は一つではない──
また、さうであってもならないはず──
それは、健常者が忘れがちなことだ。
用を済ませて悠々と出て行く彼を見送って、私はまうひとつのことに気が付ひた。
「私の手猿樂とて、先人の創始した藝能を自分なりの考へで構成してみやう、といふものではないか……」
と。