ラジオで喜多流「六浦」の後半部分の放送を聴く。
和歌の大家である冷泉為相に見事な紅葉ぶりを褒められた稱名寺の楓が、それを譽として以後は紅葉をやめて常緑となった昔語りを旅僧に聞かせ、さらに法華經の功力によって成佛することを望む、いかにも夢幻物らしい、世界觀がチト理解しづらい曲。
しかし謠にはそれに相應しく美しい節付けがなされてゐて、舞にもそれに合った良い型が附いてゐる。
ゆゑにどうしても仕舞でやりたくて、強引ではあったが、予定を組んで舞薹に立ったのは、いつのことであったか。
それでも、舞へてよかった。
もしあの時、馬鹿正直に他人へ機會を譲ってゐたら、私はこの曲については謠ひしか知らずに終はるところだったであらうから。