あの事件からもう二年か……、と月並みながら月日を思ふ。
“宗教家二世”だらうがなんだらうが、やうするに殺人犯以外の何物でもない男については、辯護團側と検察側との主張が噛み合はないなどから、公判が来年以降にずれ込む見込み云々。
「犯行動機が、政治的な信條とも個人的怨恨とも、どっちともつかぬ」云々、集められた証拠を法律に照らし合はせて判斷を下す司法の仕組みにおいて、現行の法律のままでは該當外な事例が頻發する時代にならうとしてゐる、いや、すでになってゐると、私は感じてならない。
この事件では、宗教に嵌まった親を持つ子の苦悩から、政治屋と宗教屋との癒着、果ては政治屋の裏ガネ問題と、話しはどんどん逸れて、もはや事件の根幹について浮世は忘れてゐるやうに映る。
根幹──
つまり、警護があまりに杜撰であったがために、安倍晋三元首相は落とさなくてよい命を落としたのである。
あの瞬間の映像をいま見返しても、まるで職務を果たせておらず、文字通りの「間抜け」を曝してゐる。
これが、日本國の防衞の実態なのだらうか。
今日は現場となった近鐵線大和西大寺驛の廣場と、慰靈碑の建つ和州の三笠靈苑には献花臺が設置され、哀悼を捧げる多くの人々が献花云々。
避暑で過ごす棲処にて、今日についてを胸に留めて過ごすことも、哀悼の表明なると、私は考へる。
今年の五月下旬、奇跡的な晴天のもと念願だった慰靈碑と大和西大寺驛前を訪ねて、黙とうを捧げることが叶ったのは、本當によかった。
安倍晋三元首相については、いまなほ賛否両論かまびすしいが、そもそも政界人とは、それも仕事のうちである。
かうして衆庶がああだかうだ抜かすことも、故人には今もしっかり計算の内であるはずである。
改めて、
合掌。