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国道1号線を二十分ほど行った赤目ヶ谷中信号で旧道は右に分かれますが、そのすぐ先の旧道と現道の間には、往年の松並木が一本だけ残っています(↑写真)。
「名残の松」と名付けられたこの松は、丸子宿界隈に三本残る松並木のうちの一本で、傍らの案内板にある通り、江戸、明治、大正、昭和、平成と、四つ時代の交通を見守り続けてきました。
そして間もなく、五つ目の時代へと、突入することになるわけです。
名残の松の近くには、このばあい現代の立場とも云うべきコンビニがあり、私もここで軽く腹拵えをして、赤目ヶ谷地区の旧道へ入ります。
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紅梅が多いことから、「赤梅ヶ谷」と呼ばれていたのがいつしか縮まって「赤目ヶ谷」となったらしいこの地区を過ぎると、一度国道1号線に接してから再び分かれ、空堀のように水の無い川に沿ってしばらく進んで右に大きく曲り、さらに直進した先で橋を渡ると、目の前にはとろろで有名な「丁字屋」、
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岡部宿からちょうど二里(約7.9Km)の、丸子(まりこ)宿に到着です。
昭和四十六年によそから古民家を移築した「丁字屋」のほかに古い建物はほとんどなく、また抜け道なのかなんなのか、狭い道幅のわりにクルマの通行量が上下でかなり多く、
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だんだん不快になってきたので、さっさと通り抜けることにします。
途中、二ヶ所の脇本陣跡を通りましたが、いづれも明治天皇御休息址の碑が立っており、果たしてどちらが正解なのでしょう……?
丸子6-3-8の信号で宿場を抜けて県道に合流し、五分ほど行ったところの静鉄バス乗り場の付近には「名残の松」の二本目、
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さらに信号を左折した先の丸子一丁目で三本目の松を見て、
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佐渡信号で国道1号線に合流するとすぐに手越原の信号で左に分岐、直線に続く道をしばらく進んで、中世には宿駅がおかれていた手越へと入って行きます(↓写真、ミラーと木の根元に注目!)。
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手越に入って約十分、安倍川もすぐ傍の住宅地の奥にある、「少将井神社」を訪ねることにします。
鎌倉時代の建久四年(1193年)の創建で、素戔嗚尊を祀っているこの古社の境内には、まだまだ新しいですが千手御前の石像が建っています。
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千手御前とは手越の長者の娘で、詩歌管弦に長けた白拍子でもありました。
東大寺を焼き討ちにした罪で鎌倉から奈良へ引き渡されることになった平重衡は、白拍子千手御前より慰めのもてなしを受けるうち、心優しい彼女と相思相愛になりますが、やがて永遠に再会のない別れを告げる──
能の名曲「千手」を宝生流の舞台で観たとき、シテの名演もあって深い感銘を受けたのが御縁となり、今回訪ねてみようと思い立ったわけで、あの演能を観ていなければ、なにも知らずにそのまま通り過ぎていたことでしょう。
旧東海道へ戻ると、目と鼻の先には安倍川の流れ。
かつては大井川と同じく徒渡りでしたが、今日は晴天下の富士山を行く手に望みながら、
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安倍川橋を渡って駿府城下──「府中」へと入って行きます。
「名残の松」と名付けられたこの松は、丸子宿界隈に三本残る松並木のうちの一本で、傍らの案内板にある通り、江戸、明治、大正、昭和、平成と、四つ時代の交通を見守り続けてきました。
そして間もなく、五つ目の時代へと、突入することになるわけです。
名残の松の近くには、このばあい現代の立場とも云うべきコンビニがあり、私もここで軽く腹拵えをして、赤目ヶ谷地区の旧道へ入ります。
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紅梅が多いことから、「赤梅ヶ谷」と呼ばれていたのがいつしか縮まって「赤目ヶ谷」となったらしいこの地区を過ぎると、一度国道1号線に接してから再び分かれ、空堀のように水の無い川に沿ってしばらく進んで右に大きく曲り、さらに直進した先で橋を渡ると、目の前にはとろろで有名な「丁字屋」、
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岡部宿からちょうど二里(約7.9Km)の、丸子(まりこ)宿に到着です。
昭和四十六年によそから古民家を移築した「丁字屋」のほかに古い建物はほとんどなく、また抜け道なのかなんなのか、狭い道幅のわりにクルマの通行量が上下でかなり多く、
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だんだん不快になってきたので、さっさと通り抜けることにします。
途中、二ヶ所の脇本陣跡を通りましたが、いづれも明治天皇御休息址の碑が立っており、果たしてどちらが正解なのでしょう……?
丸子6-3-8の信号で宿場を抜けて県道に合流し、五分ほど行ったところの静鉄バス乗り場の付近には「名残の松」の二本目、
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さらに信号を左折した先の丸子一丁目で三本目の松を見て、
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佐渡信号で国道1号線に合流するとすぐに手越原の信号で左に分岐、直線に続く道をしばらく進んで、中世には宿駅がおかれていた手越へと入って行きます(↓写真、ミラーと木の根元に注目!)。
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手越に入って約十分、安倍川もすぐ傍の住宅地の奥にある、「少将井神社」を訪ねることにします。
鎌倉時代の建久四年(1193年)の創建で、素戔嗚尊を祀っているこの古社の境内には、まだまだ新しいですが千手御前の石像が建っています。
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千手御前とは手越の長者の娘で、詩歌管弦に長けた白拍子でもありました。
東大寺を焼き討ちにした罪で鎌倉から奈良へ引き渡されることになった平重衡は、白拍子千手御前より慰めのもてなしを受けるうち、心優しい彼女と相思相愛になりますが、やがて永遠に再会のない別れを告げる──
能の名曲「千手」を宝生流の舞台で観たとき、シテの名演もあって深い感銘を受けたのが御縁となり、今回訪ねてみようと思い立ったわけで、あの演能を観ていなければ、なにも知らずにそのまま通り過ぎていたことでしょう。
旧東海道へ戻ると、目と鼻の先には安倍川の流れ。
かつては大井川と同じく徒渡りでしたが、今日は晴天下の富士山を行く手に望みながら、
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安倍川橋を渡って駿府城下──「府中」へと入って行きます。