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川崎浮世絵ギャラリーの「小林清親 光と影」展を観る。
江戸末期に幕臣の子として生まれ、二十代の多感な時期に明治維新を経験した小林清親は、「夜明け」後の日本を繪師として生きる。
明治十年代に、それまでの浮世繪と西洋繪画の技法を融合させた「光線画」と呼ばれる情緒的な木版画は、様々な技術を上手に取り入れて自分のものにしていく日本人生来の器用さをよく示した名品であり、また遠近法が文字通り作品に奥行きを與へてゐる。
その光線画をやめるきっかけになったとされる明治十四年の大火では、大炎上する帝國議事堂の様子を三枚續きの力作で發表しており、その画面いっぱいの紅蓮の炎には實際の灼熱ぶり、そして轟音すら聞こえてきさうな臨場感に溢れ、静謐な印象を受けるこれまでの光線画とは明らかに一線を画してゐる。
明治も三十年代に入ると、時代はこれまでの木版画を求めなくなり、小林清親はしだいに肉筆画を手掛けるやうになる。
亡くなったのは大正三年(1914年)、小林清親は明治といふ革命の四十五年間を生き抜きながら、つねに新しい文明を受け入れ、それをよく消化しつつ根底では日本の傅統文化をよく守った“次なる日本繪画”を、しかと創造したのである。
和樂器で洋樂を、キモノでダンスを猿マネすることが「現代の新しい試み」などと大勘違ひしてゐる現今(いまどき)の邦樂屋や邦舞屋などは、よく反省するべきだ。
新しい文明を上手に受け止め、それを作品化する才に恵まれた小林清親は、このたび品川區高輪の再開發現場で線路跡が發見された“陸蒸氣”も、画材に選んでゐる。
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場所はまさに、高輪。
今回の記念に、その繪葉書を購入す。