迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

陰陽―カゲヒナタ―16

2012-05-16 22:42:41 | 戯作
「あ、それで、近江さんにお渡ししたかったのって…」

実はこれなんです、と馬川朋美がバッグから取り出したのは、松岡映丘(まつおか えいきゅう) の作品集だった。


松岡映丘とは、明治末期から昭和初期にかけて大和絵の復興に尽力した画家で、日本の近代絵画史にも、もちろんその名を刻んでいる大家だ。


僕にとっては大先輩とも言えるこの偉大な画家の画集を、是非とも手に入れたいものと、出会って間もない頃に彼女に話したことがあった。

それを彼女は、ずっと覚えていてくれたのだろう。


でも…。


実はその後すぐに、デパートの大古書市で件の画集が五千円で出ているのを見つけて、既に入手済みなのだ…。


まさかそんなことを告白するわけにもいかないので、僕は精一杯驚いて見せなければならなかった。

「よく手に入れましたね。これはもう絶版になっているんですよ」

「らしいですね。でも、ネットオークションで、千円で出ていたんですよ」

ショック!

その差、四千円!

「いやぁ、ありがたいです。お金、払いますよ…」

「あ、いいんです。大した金額じゃないんですから。」

「でも…」

「ダメです。受け取りません」

彼女が笑いを含んだ目でじっとこちらを見詰めた時、例のウエイターがコーヒーを運んで来た。

「じゃ、コーヒー代は僕が」

そりゃ当然。

「では、お言葉に甘えて」

彼女はペコリと頭を下げると、「いただきます」 とカップに手を伸ばした。


ありがたいけれど、同じ本が二冊になってしまったな…。

と内心困りつつ、僕は画集のページをめくりながら、「そうそう、これが欲しかったんだ…」と呟いてみせた。

馬川朋美がカップに口を付けながら、嬉しそうにこちらを見ているのが、だんだんとすまなくなってきた。

山内晴哉といい、画集といい、さらに言えば今度のバイト現場の実態といい、たぶんこのエリアは僕にとって、“鬼門”に当たっているのではないだろうか…。







〈続〉
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