令和四年最後の朝、窓を開けると向こふに鳥が木の實を啄む姿が映る。
鳥たちに年を越すといった感覺はないだらうが、四季を越すといった感覺は、あの木の實を目印に体得してゐることだらう。
令和四年最後の散歩で、令和四年最後の夕日を眺めながら、
今年は何を得られたのか、結局よくわからないまま新しい年になるのだな、思ふ。
手猿樂師としては、春にやうやく活動の再開が叶ひ、
秋にも大いに發表の機會を得られて、
それはそれで有難いことなのだが、終熄どころか橫這ひのまま推移する今の人災疫病禍において、この調子のまま續けてゐて良いのだらうか、と云った危惧は常に心のなかにある、……つもりだ。
はっきり言って、人災疫病禍が始まって以来何も変はってゐない──たとへ病菌が弱毒化しようと──この状況下で、ニンゲンの行動ばかりを旧に復したところで、結局はなんの解決策にも打開策にもなってゐないことは、今年とにかく苦しめられた諸物価の便乗値上げがよく示してゐると、私は見る。
“何を得られたのか”より、“何を失ったのか”のはうが、いくつも頭に浮かぶとはどうしたことか?
社會においても、私個人においても。
今年ほど、「命」の大切さと脆さを合はせ鏡で見せつけられた年もなかったやうに思はれる。
令和四年は、もふ要らない。