迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ごゑんきゃうげん29 最終回

2017-04-16 06:03:11 | 戯作
無事に帰京したのち、僕は平穏な日々を送っていた。

そんな十月の初日、

“葛原市朝妻町で開催された町おこしイベントの会場で、大爆発事故が発生して死傷者が多数”―

というニュースをTVで知り、僕は腰が抜けるかと思った。

神社境内の仮設ステージでバンドグループが演奏中、演出で大量に散らせた火花が折からの横風に乗り、近くの露店で自家発電機に注入中していた燃料へ引火したのが、原因とみられる―

しかも、爆発した炎はほかの露店にも次々と引火、被害が拡大したとのこと―

そんなアナウンサーの、何故か噛みまくりの読み上げにイラッとしながら、僕は一帯が丸焦げとなった見憶えある境内の上空映像を、食い入るように見つめた。

所々からまだ立ち上る細い白煙が、事故の凄まじさを、生々しく伝えていた。

次に地上からの現地映像に切り替わり、骨組ばかりとなったステージの残骸、吹き飛んでひっくり返った露店の残骸、奇妙に歪んだパイプ椅子―

それらが悉く黒焦げになって散乱した地獄絵図の向こうに、プレハブの社殿が映っていた。

映像で見る限り、社殿は不思議と無傷のようだった。

こうして朝妻八幡宮は、八年前、そして今回と、いづれも折からの風でひろがった火災に、見舞われたわけだ。

畏るべき神意なのか?―

いや。

むしろ僕は、禍々しき因果を感じた。

もし自分も、本当に奉納歌舞伎を観るつもりで、あそこにいたら……。

そう思うと、身震いがした。

いま、自分がこうしていられるのは、下鶴昌之氏の“恩返し”のおかげだ。

しかしそれは、大きな恩返しとなった……。

僕は彼の愛想の良い、ふっくらとした丸顔を思い出した。

彼は果たして、無事なのだろうか―

僕は死傷者多数という字幕を見て、暗澹たる気持ちになった。

そして、かの「釣女」は奉納されのだろうか、また下書きをしたあの松羽目は、たぶん灰になったろうな……、など、いろいろなことを思った。

しかし、熊橋敬一老人や溝渕静男のことは、まったく、頭に浮かんで来なかった。



中旬に発生した季節外れの台風が通過した翌日は、文字通りの台風一過―朝から抜けるような青空だった。

僕は明るい日射しと北寄りの風によるカラリとした陽気に誘われるまま、都内随一の古書街へ、ふらりと出掛けた。

その一軒で、僕は「人国記」と題のついた文庫本を、何の気なしに手に取った。

それは、日本六十余州を各国ごとに分けて土地柄や人間性などを記した書物で、もともと室町末期の頃に、軍学書として書かれたものらしい。

僕は興味を覚えて、試しに現在の葛原市朝妻町を擁する地方の頁を、開いてみた。

そこには、    


『賢佞の間を兼ねたる風義なり。

……身持上手にして、人に非を打たるべき事を言葉に顕さずして、非を隠して善を説く。

然る故に心を付けずしてこれを見る時は、一段この国の人は、総じて際立ち余国にすぐれたりと見ゆるなり。

……ここを以てこれを見れば、この国は半ば佞国なりと知るべし』

云々。


まんざらハズレでもなさそうだ―

僕は溜飲の下がる思いで、本を棚に戻した。



古書街からしばらく歩いてJR線にかかる橋を渡ると、東京オリンピックの時に建てられたアリーナの前へと出た。

ここの敷地は、自由に向こう側へ通り抜けることが出来る。

僕は大きく開かれた北門から中へ入り、広々と敷き詰められた石畳を、のんびりと歩いた。

そのとき、ポケットの携帯電話が、着信を告げた。

それは、金澤あかりからのメール着信だった。

「おや?」

彼女からの連絡は、これが初めてだった。

開いてみると、ただ一言。

『う し ろ』

僕はその通りに後ろを見て、

「あ!」

そこには、黒のスポーツウェア姿の本人が、ふんわりとした笑顔で立っていた。

「お久しぶりです」

金澤あかりは、ちょこんと頭を下げた。

相変わらず化粧っ気のない、色白の可愛らしい顔立ちに、僕はたまらなく懐かしさがこみ上げてきた。

そして、どこか下鶴昌之氏の俤があることに、気が付いた。

「ああ、お元気そうで……」

僕はそう返すのが、精一杯だった。

「門を通る姿が見えたので、ついメールしてしまいました……」

お忙しいところを呼び止めてごめんなさい、と言う彼女に、僕は「いやいや、暇をもて余しているんですよ」と首を振り、

「ジョギング中、でしたか……?」

と、いかにもアスリートらしくよく似合っているそのウェア姿を見て、訊いた。

金澤あかりは「いいえ」とアリーナを指し、

「今日ここで、アマチュアボクシングの大会をやっているんです」

「ああ……」

僕もアリーナを見上げた。「では、金澤さんも……?」

「はい」

金澤あかりは頷いた。

そして、

「今日はわたし、出場選手なんです」

と、軽く握った両手を胸の前で構えてみせた。

「そうですか……」

『応援でもしてやってください』―

僕の脳裏に、あのときの下鶴昌之の言葉が、よみがえった。

そして、暴漢の凶刃を鮮やかに避けた、あのときの金澤あかりの姿も……。

すべては、あのときに始まったのだ―

僕は、そんな金澤あかりのリング上の姿を、見てみたいと思った。

が、“照れ”という、思いもしなかった感情が、それを口にしたい気持ちを、邪魔した。

僕は、急に落ち着きを失った胸の鼓動を懸命に抑えながら、やっと出た言葉が、

「当日券は、まだあるんですか……?」

だった。

「え?」

金澤あかりは一瞬、きょとんとした。

が、すぐに悟って、

「ああ、アマチュアの大会なんで、無料ですよ。観戦自由」

と笑った。

「そうなんですか……」

「もっとも観客は、ジムの人とか、関係者がチラホラですけどね。……あと選手の親兄弟や、親戚や、友達や、恋人とか」

そして次の一言が、僕の胸に、重く響いた。

「……もっともわたしには、そういった人たちはいませんけど」

育ての親の嵐昇菊はすでにこの世になく、本当の父親も、いまや生死のほどが疑わしい。

もしかしたら、一緒に上京したと云う母親とも、すでに縁が切れているのかもしれない。

金澤あかりは、ただひとりで生きている……。

「では僕が、金澤さんの関係者、ということで」

それは、自然と口から出た言葉だった。

彼女への同情ではない、それをはるか高く超えた気持ちからの、真実(ほんとう)の言葉……。

金澤あかりは、はっとした表情のまま、固まってしまった。

僕は、僕にとっての最悪の反応が次におきるかもしれないことを、覚悟した。

しかし金澤あかりは、両手でゆっくり口を覆うと、

「観に、来て、くださるんですか……? ありがとうございます」

と、かすれた声で、しかし、はっきりと言った。

そして、

「わぁ、うれしい」

と、キャッキャと喜ぶ様子は、いまどきの年頃の女の子そのものだった。

僕は、葛原駅を“脱出”したとき以来の、安堵をおぼえた。

「なんかわたし、今日は絶対に勝てそうな気がしてきました」

急にテンションが上がった金澤あかりは、真顔を僕に近づけると、

「今日勝つと、オリンピックへの切符を手に出来るチャンスがあるかも、なんです」

僕は彼女のショートヘアから微かに漂う、麗しい香りに鼻をくすぐられつつ、

「では、その瞬間を観たいですね」

「お見せします」

彼女は力強くそう言って、またふんわりとした笑顔を見せた。

そして、

「ではですね、入口はこの先をずっと行って……、あ、じゃなくて……。わたしが、ご案内します」

そう言って金澤あかりは先に立って歩き出したが、やがて、さりげなく、僕の横に並んで、歩き始めた。

僕はそんな金澤あかりの、ショートヘアが風にさらさらと揺れる横顔をさりげなく見て、

僕はたぶん、この女性(ひと)を好きになる……

と、思った。


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