「この土地の人間は古くから、自分たちの平穏を乱す闖入者には、容赦しない風習があります。
せやさかい、あかりの出生を暴露したあの男も……。
あ、まぁ、それは、いいとして、今からならまだ、東京行きの特急と接続する列車に、間に合います」
さあ近江さん急いで、と促す下鶴昌之に、僕は「なぜあなたは……」と問いかけると、
「東京で、あかりの命を救って下はったことへの、私からの恩返し……の、つもりですわ」
と、にっこりしてみせた。
とんでもない! ―僕は本気で頭(かぶり)を振った。
「あの子は東京で、アマチュアのボクシングをやっているようですな……。
よかったら、応援でもしてやってください」
僕は胸がじんじんするのをこらえつつ、「わかりました」とはっきり頷くと、下鶴昌之は再び、「さ!」と促した。
僕は山を下るさい、下鶴昌之を振り返り、深く頭を下げた。
彼は笑顔で、大きく手を振ってみせた。
僕は急いで葛原市街地に下り、ホテルに戻って荷物をまとめると、残りの日数分のキャンセル料を払ってチェックアウトした。
そして葛原駅に来て、僕は下鶴昌之の話が本当であることを実感した。
改札口の前で、こちらに横顔を向けて壁の時刻表を見上げているのは、あの熊橋老人だったからだ。
すると老人は、ふとこちらに顔を向けたので、僕は慌てて駅舎の外に隠れた。
その瞬間に見た険しい表情は、明らかに誰かを待ち構えている様子だった。
おそらく熊橋老人は、僕がホテルをチェックアウトしていないことから、まだこの辺りにウロウロしていると踏んで、何がなんでも“軟禁”するため自ら出張って来たのかもしれない。
物陰からこっそり様子を伺うと、なにやら辺りをキョロキョロしているのが、その証拠と思えた。
「参ったな……」
とんだ関守が現れたものだ。
僕はため息をついて、腕時計を見た。
列車の到着まで、あとわずか。
今の状況では、間違いなく熊橋老人と顔を合わせなければ、改札口を通れない。
相手はどうせ老人、かくなる上は突き倒してでも……。
そんな物騒なことを半ば本気で考えているうち、とうとう列車が到着してしまった。
僕は駅舎の外で壁に寄りかかり、「万事休す……」と呟いた。
列車のドアが開く音と、おばさんたちが声も賑やかにホームへ降り立つのが聞こえた。
僕がこっそり改札口を窺うと、旗振りの添乗員に引率されたおばさんの団体が、ゾロゾロとそちらに向かって来るところだった。
ところが僕にとって幸運、熊橋老人にとって不運だったのは、熊橋老人の立ち位置が、ちょうどおばさん団体の通り道に当たっていたことだった。
案の定、熊橋老人は改札口を出たおばさんたちにふっ飛ばされるようにして、後ろへと追いやられてしまった。
僕は、そのゾロゾロ歩くおばさんたちの行列が、熊橋老人から僕の姿を隠すちょうどよい人垣となっているのを、見てとった。
いまがチャンス!
僕は、それ! と駅舎に飛び込んだ。
そして一気に、改札口を通り抜けた。
事前に東京までの切符を買っておいたのが、幸いした。
そして、すでに発車ベルが鳴っているホームから、列車へ飛び乗った。
と、同時にドアが閉まり、二両編成のディーゼルカーは、エンジン音も高らかに発車した。
僕は座席につくと、さりげなく改札口に目をやった。
熊橋老人がおばさんの一人と、なにやら口論となっている姿が、チラッと目に入った。
僕はふうっ、と大きく息を吐いて、背もたれに頭を預けた。
『虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して……』
まさに、謡曲「安宅」の詞章のような心境だった。
続
せやさかい、あかりの出生を暴露したあの男も……。
あ、まぁ、それは、いいとして、今からならまだ、東京行きの特急と接続する列車に、間に合います」
さあ近江さん急いで、と促す下鶴昌之に、僕は「なぜあなたは……」と問いかけると、
「東京で、あかりの命を救って下はったことへの、私からの恩返し……の、つもりですわ」
と、にっこりしてみせた。
とんでもない! ―僕は本気で頭(かぶり)を振った。
「あの子は東京で、アマチュアのボクシングをやっているようですな……。
よかったら、応援でもしてやってください」
僕は胸がじんじんするのをこらえつつ、「わかりました」とはっきり頷くと、下鶴昌之は再び、「さ!」と促した。
僕は山を下るさい、下鶴昌之を振り返り、深く頭を下げた。
彼は笑顔で、大きく手を振ってみせた。
僕は急いで葛原市街地に下り、ホテルに戻って荷物をまとめると、残りの日数分のキャンセル料を払ってチェックアウトした。
そして葛原駅に来て、僕は下鶴昌之の話が本当であることを実感した。
改札口の前で、こちらに横顔を向けて壁の時刻表を見上げているのは、あの熊橋老人だったからだ。
すると老人は、ふとこちらに顔を向けたので、僕は慌てて駅舎の外に隠れた。
その瞬間に見た険しい表情は、明らかに誰かを待ち構えている様子だった。
おそらく熊橋老人は、僕がホテルをチェックアウトしていないことから、まだこの辺りにウロウロしていると踏んで、何がなんでも“軟禁”するため自ら出張って来たのかもしれない。
物陰からこっそり様子を伺うと、なにやら辺りをキョロキョロしているのが、その証拠と思えた。
「参ったな……」
とんだ関守が現れたものだ。
僕はため息をついて、腕時計を見た。
列車の到着まで、あとわずか。
今の状況では、間違いなく熊橋老人と顔を合わせなければ、改札口を通れない。
相手はどうせ老人、かくなる上は突き倒してでも……。
そんな物騒なことを半ば本気で考えているうち、とうとう列車が到着してしまった。
僕は駅舎の外で壁に寄りかかり、「万事休す……」と呟いた。
列車のドアが開く音と、おばさんたちが声も賑やかにホームへ降り立つのが聞こえた。
僕がこっそり改札口を窺うと、旗振りの添乗員に引率されたおばさんの団体が、ゾロゾロとそちらに向かって来るところだった。
ところが僕にとって幸運、熊橋老人にとって不運だったのは、熊橋老人の立ち位置が、ちょうどおばさん団体の通り道に当たっていたことだった。
案の定、熊橋老人は改札口を出たおばさんたちにふっ飛ばされるようにして、後ろへと追いやられてしまった。
僕は、そのゾロゾロ歩くおばさんたちの行列が、熊橋老人から僕の姿を隠すちょうどよい人垣となっているのを、見てとった。
いまがチャンス!
僕は、それ! と駅舎に飛び込んだ。
そして一気に、改札口を通り抜けた。
事前に東京までの切符を買っておいたのが、幸いした。
そして、すでに発車ベルが鳴っているホームから、列車へ飛び乗った。
と、同時にドアが閉まり、二両編成のディーゼルカーは、エンジン音も高らかに発車した。
僕は座席につくと、さりげなく改札口に目をやった。
熊橋老人がおばさんの一人と、なにやら口論となっている姿が、チラッと目に入った。
僕はふうっ、と大きく息を吐いて、背もたれに頭を預けた。
『虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して……』
まさに、謡曲「安宅」の詞章のような心境だった。
続