迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

一大鎌倉墓園。

2019-02-26 22:59:01 | 浮世見聞記
鎌倉を歩いてゐると、岩壁に洞窟の入口のやうな大きな穴が開いてゐるのを、至るところで見かける。



これは「やぐら」と云ひ、鎌倉時代から室町時代初期にかけて盛んに造られた、墓の跡と傅はる。


のちには馬小屋の代はりや資材置場、またはゴミ捨て場などに転用されたさうだが、



第二次大戦中には防空壕としても重用され、魂を鎮める場所が命を守る場所となったのも、奇しき因縁か。


やぐらは場所によって地蔵や祠が祀られ、



また鎌倉駅から横須賀線の線路に沿って1㎞ほど大船方面へ歩いた扇ヶ谷一丁目には、藤原為家の後妻で冷泉家の初代となる藤原為相(ふじわらのためすけ)の母、阿仏尼(あぶつに)の墓と傅はる石塔が、やぐらのなかに現在も見られる。



やぐらの本来の役割を現在も傅へてゐるといふ意味で、貴重なものかもしれない。


1333年(元弘三年)、北条高時は東勝寺におゐて一族と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡したわけだが、その跡と云ふ「腹切りやぐら」は、



現在も東勝寺跡裏手の、鬱蒼とした木立のなかに遺ってゐる。



武家政治発祥の地でありながら、その遺跡がほとんど見られない鎌倉だが、彼らが心の拠り所とした寺院の多くは、現在(いま)もその佇まひを傅へてゐる。


つまり、岩肌に多く遺るやぐら跡は、それだけ鎌倉が人口の多ひ佛教都市だったことを示すもの、と言へるのではないだらうか。




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