![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/db/6c96b3501cb15c7f03fa6da4c8b4c23b.jpg)
鎌倉を歩いてゐると、岩壁に洞窟の入口のやうな大きな穴が開いてゐるのを、至るところで見かける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/56/e74297a558c65804024893f2e94afcfe.jpg)
これは「やぐら」と云ひ、鎌倉時代から室町時代初期にかけて盛んに造られた、墓の跡と傅はる。
のちには馬小屋の代はりや資材置場、またはゴミ捨て場などに転用されたさうだが、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/b8/e7e0fab58424778589ad5deaf01d21ef.jpg)
第二次大戦中には防空壕としても重用され、魂を鎮める場所が命を守る場所となったのも、奇しき因縁か。
やぐらは場所によって地蔵や祠が祀られ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/85/b6581fcef03be73bd05fe94933f8a713.jpg)
また鎌倉駅から横須賀線の線路に沿って1㎞ほど大船方面へ歩いた扇ヶ谷一丁目には、藤原為家の後妻で冷泉家の初代となる藤原為相(ふじわらのためすけ)の母、阿仏尼(あぶつに)の墓と傅はる石塔が、やぐらのなかに現在も見られる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/e2/501f712d041edb83700002b64d0b16a7.jpg)
やぐらの本来の役割を現在も傅へてゐるといふ意味で、貴重なものかもしれない。
1333年(元弘三年)、北条高時は東勝寺におゐて一族と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡したわけだが、その跡と云ふ「腹切りやぐら」は、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/45/72340e7c05472d5656f8bfafb8ab0839.jpg)
現在も東勝寺跡裏手の、鬱蒼とした木立のなかに遺ってゐる。
武家政治発祥の地でありながら、その遺跡がほとんど見られない鎌倉だが、彼らが心の拠り所とした寺院の多くは、現在(いま)もその佇まひを傅へてゐる。
つまり、岩肌に多く遺るやぐら跡は、それだけ鎌倉が人口の多ひ佛教都市だったことを示すもの、と言へるのではないだらうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/56/e74297a558c65804024893f2e94afcfe.jpg)
これは「やぐら」と云ひ、鎌倉時代から室町時代初期にかけて盛んに造られた、墓の跡と傅はる。
のちには馬小屋の代はりや資材置場、またはゴミ捨て場などに転用されたさうだが、
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第二次大戦中には防空壕としても重用され、魂を鎮める場所が命を守る場所となったのも、奇しき因縁か。
やぐらは場所によって地蔵や祠が祀られ、
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また鎌倉駅から横須賀線の線路に沿って1㎞ほど大船方面へ歩いた扇ヶ谷一丁目には、藤原為家の後妻で冷泉家の初代となる藤原為相(ふじわらのためすけ)の母、阿仏尼(あぶつに)の墓と傅はる石塔が、やぐらのなかに現在も見られる。
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やぐらの本来の役割を現在も傅へてゐるといふ意味で、貴重なものかもしれない。
1333年(元弘三年)、北条高時は東勝寺におゐて一族と共に自害し、鎌倉幕府は滅亡したわけだが、その跡と云ふ「腹切りやぐら」は、
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現在も東勝寺跡裏手の、鬱蒼とした木立のなかに遺ってゐる。
武家政治発祥の地でありながら、その遺跡がほとんど見られない鎌倉だが、彼らが心の拠り所とした寺院の多くは、現在(いま)もその佇まひを傅へてゐる。
つまり、岩肌に多く遺るやぐら跡は、それだけ鎌倉が人口の多ひ佛教都市だったことを示すもの、と言へるのではないだらうか。