「卒都婆小町」のシテを二十年ぶりにつとめると云ふ金春安明師だけを樂しみに、橫濱能樂堂へ出かける。
『日本全国能楽キャラバン! 横浜公演』なる狙ひのよくわからない企画における上演ながら、
能樂における“老女”と云ふものを、私が最高と信じてゐる演者でしっかりと目にしておきたい、と云ふ欲求に、しっかり應へてくれた美麗な舞薹。
……だったのは、あくまでシテの小野小町をつとめた金春安明師のみで、他の出演者はてんで話しにならぬ。
三人も出て来た後見の主はあからさまにヨボヨボで、副は初めから小舟を漕ぎ、笛方はあからさまに渋い表情(かお)をしては片手を舞薹について足を組み替へる行儀の惡さ、“能の最奥曲の一つ”に出演してゐると云ふ緊張感がまったく感じられない。
舞薹上での正座に堪へられない不心得者はほかにもゐて、「翁」を奈良春日大社の奉納神事用として明治初期に再構成したと云ふ「神樂式」に出演した前列の地謠方の一人に、一時間にも満たぬ演能の途中で足を崩して終演後には這ふ這ふの体で切り戸口に逃げ込む不様な恥曝しを見、「アレで玄人(プロ)の能樂師なのか……?」とただ呆れる。
ちなみに、三番三の鈴を捧げて引っ込む係の若い後見が、立ち上がった途端にシビレを切らして派手に転倒してゐたが、なァに、若いときの失敗は将来の財産、今のうちに澤山やからしておくべし。
二時間に近い「卒都婆小町」に辟易したかのやうに、その後の休憩時間で何割かのお客が外へゾロゾロ出て行ったあと、「高砂」が“祝言ノ式”なる小書を付けた半能で上演される。
後シテの装束がいつもの狩衣から、唐織を猩々のやうに付けたものに變はるのが特徴云々、いかにも神能らしい颯爽さが重曲を觀たあとの良い口直しとなり、帰りは秋らしい夜風に當りながら、少し歩いて行くか、と云ふ氣分になる。