私がまだ幼少の時分、両親は都内の大森を転居候補地に考へてゐたことがある。
しかし實踏してみたところ、騒音と空気の惡さから候補地より外した、と聞いてゐる。
以来、私のなかで東京都大田區大森とはさういふ印象が根付ひてゐたが、かつて昭和三十年代後半まで、「浅草海苔」を生産する独自の生活文化を持つ海辺の町であったことを、
大森 海苔のふるさと館の冩真展「東京オリンピックに沸いたあの頃の海辺」を観て、初めてはっきりと知る。
冩真展の内容は、昭和三十八年より港湾整備が本格始動する以前、海苔づくりが最盛期だった時代の活気あふれる生活風景が中心で、現在のトウキョウ生活からは想像も難しい人間文明の存在が、そこには明確に記録されてゐる。
そんな日本一の生産量と品質を誇り、“本場乾海苔”と謳はれた大森がその地位を放棄するきっかけとなったのが、昭和三十四年に招致が決まった東京オリンピックに絡む──又はかこつけた──、大規模な都市再整備事業だ。
多摩川河口の羽田空港をはじめ、大田區の沿岸地域は大規模な埋立と交通整備が計画され、“本場乾海苔”の産地はまさにその範囲にあたってゐた。
東京オリンピック開催の二年前にあたる昭和三十七年(1962年)、東京湾内における漁業權の放棄が決定して生活の糧が明け渡されると、大森は瞬く間に産業工業地帯へと変貌していく──
両親が大森への転居をやめたのは、その余塵がまだ漂ってゐた時代だ。
昭和三十九年(1964年)に開催された東京オリンピックの陰では、大森に見るやうな、古くからの生活文化の破壊と消滅があった。
しかし、大森とその沿岸開發について云へば、その後に私の生活や、また手猿樂師としての活動に間接的ながら潤ひをもたらしたことは、紛れもない事實だ。
營利を目的としないはずのオリンピック大會がもたらした、大いなる経済効果──
それが表面上だけでも“副産物”であったならば、まだ「見て見ぬフリ」も出来やう。
そのやうな“オトナの融通”くらゐ、私だって利かせられる。
が、その“副産物”としておくべきものを露骨に“主産物”にすると、今夏のやうな大反發と大失敗を招くことになる。
生活文化を放棄させられる以前の海苔生産者たちの活き活きとした表情を見てゐると、いざ生活の糧を奪はれる現實に直面した時の葛藤は、相當なものがあったはずだ。
今回の冩真展には、そこまでの様子は紹介されてゐない。
しかし、海苔漁場で舟の上からカメラに笑顔を向ける青年を見て、私はけっして唯々諾々ではなかったはずだと、聞き取るのである。