師走の夜八時。
権堂太郎兵衛じいさんはほくそ笑みながら、居間の炬燵で晩酌をチビチビとやっていました。
「やっぱり、静かなのが一番じゃ……」
それは、今宵から夜回りを、廃止にさせたからです。
夜回りとは、
「火の用心」
チョンチョン、と拍子木を打って町内を巡回する、あれです。
権堂じいさんは日頃からあの「火の用心」チョンチョンを、町内の静かな夜を掻き乱す、騒音だと感じていました。
ああいったうるさいものは、ぜったいに止めさせなければならない、そう思っていました。
「だいたい火の用心、火の用心って、そんなこと当たり前じゃろうが。口に出すまでもないことじゃ……!」
平凡な会社の平凡な会社員を定年まで勤め上げ、それと同時に奥さんが出て行って、十五年。
無趣味な権堂じいさんは、木造二階建ての家で、一日中なにもやることもなく、ひとり静かな生活を送ってしました。
そんな物音ひとつない生活に慣れた身にとって、毎晩やって来る夜回りは、許しがたい騒音でしかなかったのです。
昨年、権堂じいさんはいちど自治会長さんのお宅まで行って、夜回りの中止を訴えたことがありました。
「夜更けにあんな大きな声を出しながらカチカチ鳴らしおって、うるさいとは思わんかね……?」
玄関先で喰ってかかる権堂じいさんに、自治会長さんは弱りきった顔で頭の後ろを掻き掻き、
「来週の自治会の会合で、諮ってみます……」
と約束しました。
ところが話しはそれっきり、夜回りは相変わらず毎晩続き、権堂じいさんは烈火の如く怒り狂って、再び自治会長さん宅に押しかけました。
そして自治会長さんが宥めるのも聞かず、玄関先で散々に喚き散らした権堂じいさんは、近所の方の通報で駆け付けた交番の警察官によって、なんとか引き離されたのでした。
「権堂さんのほうが、よっぽどうるさい」
「家でボーッとなにもしないでいるから、ちょっとした物音でも気になるんだ」
といった町内での悪評など、ふだん外へ出ない権堂さんの耳に入りはしませんでしたが、さすがに警察沙汰になったことを恥じて、しばらくはじっと、我慢をしなければなりませんでした。
ところが、そんな隠忍の日々を送る権堂さんにとって、朗報が舞い込んできました。
それは、隣町で建設予定だった幼稚園が、近隣住民たちの「子供の声でうるさくなる!」といった反対運動が効を奏して、ついに中止へと追い込まれたのです。
「ほうれ見ろ!」
権堂じいさんは溜飲の下がる思いで、膝を打ったものです。
「みんな、静かな暮らしを望んでおるのじゃ……!」
権堂じいさんは百人力を得た気分になって、また自治会長さん宅へと、出掛けて行きました。
結局、権堂太郎兵衛じいさんの“苦情”は通りました。
今宵の晩酌は、権堂じいさんにとって、祝盃でもありました。
自治会長さん相手の“苦闘”を思い返しながら、それを肴に熱燗をチビチビやっていた権堂じいさんでしたが、そのうちニヤけた口許から酒がこぼれて、炬燵布団を濡らしてしまいました。
「ありゃ」
権堂じいさんはあわててお猪口をおくと、台布巾で拭こうとしました。
しかし台布巾は、台所にありました。
権堂じいさんは舌打ちすると、面倒くさそうに炬燵から立ち上がりました。
そして台所へ入りかけて、愕然となりました。
ガスコンロから上がった太い火柱が、天井をチロチロと舐めていたからです。
「……!」
権堂じいさんは、肴にしようとガスコンロで明太子を炙っていたことを、すっかり忘れていたのです。
「しまった……!」
もはや、これ以上は台所には近付けません。
すっかり動転した権堂じいさんは、一一九番に電話することも忘れて風呂場に駆け込むと、浴槽にはった水を、洗面器に汲みました。
そしてそれを、台所の入口から、さらに勢いを増す火柱に向けて、ぶちまけました。
ところが、炎はおさまるどころか、まるで油を注いでしまったかのように、さらに激しく燃えはじめたではありませんか!
「だ、ダメじゃ……!」
権堂じいさんは初めて、差し迫った恐怖を感じました。
「火事じゃぁ! 助けてくれ〜っ!」
権堂じいさんは声を限りに叫びながら再び風呂場へ駆け込むと、浴槽の水を洗面器に汲んで、また同じことを繰り返しました。
言うまでもなく、結果は同じでした。
権堂じいさんは膝をガクガク震わせながらもう一度、
「火事じゃぁ、大変じゃぁ、た〜す〜け〜て〜く〜れ〜っ!」
と叫びました。
そのとき、玄関でドンドンと、激しくドアを叩く音が聞こえました。
「助けが来た……!」
権堂じいさんは泳ぐようにして玄関へたどり着くと、ドアを開けました。
そこには、お隣りの河村さんの奥さんが、パジャマにカーディガンを羽織った姿で立っていました。
ああ、奥さんありがとう……!
そうお礼を言おうとした権堂じいさんに、河村さんの奥さんが言いました。
「静かにしてください! いま何時だと思っているんですか!」
〈完〉
権堂太郎兵衛じいさんはほくそ笑みながら、居間の炬燵で晩酌をチビチビとやっていました。
「やっぱり、静かなのが一番じゃ……」
それは、今宵から夜回りを、廃止にさせたからです。
夜回りとは、
「火の用心」
チョンチョン、と拍子木を打って町内を巡回する、あれです。
権堂じいさんは日頃からあの「火の用心」チョンチョンを、町内の静かな夜を掻き乱す、騒音だと感じていました。
ああいったうるさいものは、ぜったいに止めさせなければならない、そう思っていました。
「だいたい火の用心、火の用心って、そんなこと当たり前じゃろうが。口に出すまでもないことじゃ……!」
平凡な会社の平凡な会社員を定年まで勤め上げ、それと同時に奥さんが出て行って、十五年。
無趣味な権堂じいさんは、木造二階建ての家で、一日中なにもやることもなく、ひとり静かな生活を送ってしました。
そんな物音ひとつない生活に慣れた身にとって、毎晩やって来る夜回りは、許しがたい騒音でしかなかったのです。
昨年、権堂じいさんはいちど自治会長さんのお宅まで行って、夜回りの中止を訴えたことがありました。
「夜更けにあんな大きな声を出しながらカチカチ鳴らしおって、うるさいとは思わんかね……?」
玄関先で喰ってかかる権堂じいさんに、自治会長さんは弱りきった顔で頭の後ろを掻き掻き、
「来週の自治会の会合で、諮ってみます……」
と約束しました。
ところが話しはそれっきり、夜回りは相変わらず毎晩続き、権堂じいさんは烈火の如く怒り狂って、再び自治会長さん宅に押しかけました。
そして自治会長さんが宥めるのも聞かず、玄関先で散々に喚き散らした権堂じいさんは、近所の方の通報で駆け付けた交番の警察官によって、なんとか引き離されたのでした。
「権堂さんのほうが、よっぽどうるさい」
「家でボーッとなにもしないでいるから、ちょっとした物音でも気になるんだ」
といった町内での悪評など、ふだん外へ出ない権堂さんの耳に入りはしませんでしたが、さすがに警察沙汰になったことを恥じて、しばらくはじっと、我慢をしなければなりませんでした。
ところが、そんな隠忍の日々を送る権堂さんにとって、朗報が舞い込んできました。
それは、隣町で建設予定だった幼稚園が、近隣住民たちの「子供の声でうるさくなる!」といった反対運動が効を奏して、ついに中止へと追い込まれたのです。
「ほうれ見ろ!」
権堂じいさんは溜飲の下がる思いで、膝を打ったものです。
「みんな、静かな暮らしを望んでおるのじゃ……!」
権堂じいさんは百人力を得た気分になって、また自治会長さん宅へと、出掛けて行きました。
結局、権堂太郎兵衛じいさんの“苦情”は通りました。
今宵の晩酌は、権堂じいさんにとって、祝盃でもありました。
自治会長さん相手の“苦闘”を思い返しながら、それを肴に熱燗をチビチビやっていた権堂じいさんでしたが、そのうちニヤけた口許から酒がこぼれて、炬燵布団を濡らしてしまいました。
「ありゃ」
権堂じいさんはあわててお猪口をおくと、台布巾で拭こうとしました。
しかし台布巾は、台所にありました。
権堂じいさんは舌打ちすると、面倒くさそうに炬燵から立ち上がりました。
そして台所へ入りかけて、愕然となりました。
ガスコンロから上がった太い火柱が、天井をチロチロと舐めていたからです。
「……!」
権堂じいさんは、肴にしようとガスコンロで明太子を炙っていたことを、すっかり忘れていたのです。
「しまった……!」
もはや、これ以上は台所には近付けません。
すっかり動転した権堂じいさんは、一一九番に電話することも忘れて風呂場に駆け込むと、浴槽にはった水を、洗面器に汲みました。
そしてそれを、台所の入口から、さらに勢いを増す火柱に向けて、ぶちまけました。
ところが、炎はおさまるどころか、まるで油を注いでしまったかのように、さらに激しく燃えはじめたではありませんか!
「だ、ダメじゃ……!」
権堂じいさんは初めて、差し迫った恐怖を感じました。
「火事じゃぁ! 助けてくれ〜っ!」
権堂じいさんは声を限りに叫びながら再び風呂場へ駆け込むと、浴槽の水を洗面器に汲んで、また同じことを繰り返しました。
言うまでもなく、結果は同じでした。
権堂じいさんは膝をガクガク震わせながらもう一度、
「火事じゃぁ、大変じゃぁ、た〜す〜け〜て〜く〜れ〜っ!」
と叫びました。
そのとき、玄関でドンドンと、激しくドアを叩く音が聞こえました。
「助けが来た……!」
権堂じいさんは泳ぐようにして玄関へたどり着くと、ドアを開けました。
そこには、お隣りの河村さんの奥さんが、パジャマにカーディガンを羽織った姿で立っていました。
ああ、奥さんありがとう……!
そうお礼を言おうとした権堂じいさんに、河村さんの奥さんが言いました。
「静かにしてください! いま何時だと思っているんですか!」
〈完〉