樂しみであるところの“資料漁り”でトウキョウ都心へ出かけたつひでに、JR線の千駄ヶ谷驛で途中下車してみる。
茶番大運動會は日本の歴史に汚點を遺しただの、中止だの、無視するだのと、自分の眼で何も見ずにただ他人(ひと)の流す情報だけで吠へるのは、持ち前の野次馬根性がどふしても許さなかったのだ。
たしかに私は、神武いらいの汚點に身を置いてゐる。
茶番大運動會は無視してよし。
茶番大運動會は日本の歴史に汚點を遺しただの、中止だの、無視するだのと、自分の眼で何も見ずにただ他人(ひと)の流す情報だけで吠へるのは、持ち前の野次馬根性がどふしても許さなかったのだ。
東京体育館から例の「性的暴行事件」の現場前までを歩いただけだが、
外周にゐる末端の関係者たちを眺めてゐるうち、この人たちは一体なにをやってゐるのだらう……、と哀れな氣分が込み上げてくる。
もとが低俗な茶番劇であるだけに、彼らのシゴトはしょせん草臥れ損以外の何ものでもないのである。
なんと麗しく、そして虚しい自己犠牲!
たしかに私は、神武いらいの汚點に身を置いてゐる。
しかしその一方で、多少なりとも商賣が成り立ってゐる人たちもゐる。
茶番大運動會は無視してよし。
だが、彼らの生計は無視できない。
私は、基本理念から著しく外れたこの茶番大運動會には招致活動當初から反對であり、いまも中止を唱へる者である。
「中止するのは簡単」と認識してゐるのならば、さっさとさうしてしまへば良かったのだ。
その誤りが、つひにこの無意味な事態を引き起こしてしまった。
無意味──
つまり、
この件について吠へるのも、
もはや無意味なのである。