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朝のラジオ放送で、喜多流の「烏頭(うとう)」を聴く。
生前に鳥を獲って生計を立ててゐた猟師が、死後に地獄へ堕ちてかつての獲物に責め苛まれる ──
他流では「善知鳥」と表し、“善きを知る鳥”と字面は優しげだが、内容は後半に凄惨な地獄責めを用意した曲。
放送では喜多流ならではのさっぱりとした謠を聴かせてくれたが、私はかういふ願へど救ひも悟りもない曲は性に合はず、今日のラジオ放送がなければ、おそらく生涯接することは無かったはずだ。
現世がすでに責め地獄のところへ、なにも觀劇料(カネ)を拂ってまで同じやうな景色を見なくても……──
私はさう思ってしまふのである。
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類似の曲には「阿漕(あこぎ)」があり、こちらの場合は地獄で生前に獲った魚に喰ひ付かれるもので、後シテが實際に胸元で片手を握りしめる型をみせてその様を表現するのを、金春流の舞台で観たことがある。
演者(シテ)は一体どんな氣持ちで稽古したのだらう、と半ば呆れた思ひで観てゐたのは、ハテ何年前であったか。
この人災疫病で、あらゆる事柄がなし崩しとなってゐる。
私のいちばん嫌ひな事象だ。
おそらく「今年の漢字」は、
『崩』
ではないだらうか。
しかし私は、自分の目で“安心安全”を確かめるまでは舞台に立たないし、観ることもしない。
なし崩しは、
すなわち自身の崩壊でもあるからだ。
結局は、救ひも悟りもおのれの“業”次第──
今日の「烏頭」は、だうもさう謠ってゐたやうに聴こえる。