長崎に原子爆彈が投下されて、今日で七十六年目となる。
大阪に住んでゐた時代、青春18きっぷを手に九州をほとんど彷徨ふやうに旅したとき、初めて長崎を訪れた。
市電、グラバー園、眼鏡橋、中華街、思ってゐたほど美味しいと思はなかったチャンポン、出島跡、大浦と浦上の天主堂──
と名所旧跡を巡るなかで、もちろん原爆資料館と、そこから程近い原爆投下中心地の碑も訪ねた。
ただただ厳粛な氣持ちになったことは、よく憶えてゐる。
米夷にとって、原子爆彈は日本の都市に落とせれば“どこでもよかった”、くらゐに考へてゐたふしがある。
實際、小倉に投下しやうとして雲が邪魔したため目標地を急遽変更した、と聞ひたことがある。
人の運命は、他人(だれか)の匙加減ひとつで簡單に決まってしまふことが、往々にしてある。
私も、大昔にさうしてひとつの仕事をフイにされた不快な経験がある。
歴史には、つねに狂言作者がゐる。
その日の午後、長崎驛から普通列車に乗り、鳥栖経由で八代へと向かった。
途中、放課後の部活動の女子高生らしき集團が、走りながら列車に手を振ってゐた。
私はそれを、冷めた思ひで横目にやり過ごした。
それは、現在(いま)も変はらないだらう。
いまの私に、長崎は遠い。