日本國がしょせん敗戰國であり、米國の五十一番目の“州”であり、無理押しゴリ押しが簡單に通り、そしてお祭り好きの感動好きをみごとに見透かされ愚弄された屈辱の茶番劇が、人災疫病の感染擴大といふ現實から乖離したところで、第一幕の強行を今宵に完徹云々。
強行中は日々の感染者數と天氣予報以外は情報を遮断してゐたが、それでも物見櫓に立ってゐると、運動競技屋がしょせん運動バカでしかない奇怪な噂も、仄かながら入ってくる。
そのなかでも“スケボー”とか云ふ、少なくとも日本國では洟垂れ小僧どもの「迷惑行為」でしかないしろものが、
この茶番劇ではすっかり運動競技になりすましてゐたのには驚き呆れ、そして「巧ひことやりおったな……」と嗤ふ。
それにしても、人災疫病終熄を事實上放棄までして犯したこの茶番大運動會の強行は、なんとも異様であり、奇怪である。
為政者は、現在では憲法上不可能な疫病對策のための“都市封鎖”を合法化するため、米國高官と週に一度密會して憲法改定工作に勤しんでゐる“ウワサ”は、前に話した。
改革は有事にこそ實行しやすいものであり、何事も無い時の改革が困難であることは、先代の為政者代表が“憲法第九条”に手を付けやうとして失敗した例が、好く示してゐる。
それに懲りたであらう為政者たちにとって、この疫病禍といふ“有事”は、改憲には願ったり叶ったりの好機である。
だが、この工作からはもちろん、國民の目を逸らさせる必要がある。
そこで利用されたのが、今夏に延期となった“トウキョウ茶番大運動會2020”である。
手先である報道屋どもを総動員してお祭り騒ぎを煽り、國民がそちらに氣をとられてゐる隙に、夷人高官との改憲工作を進める。
そこで運動競技屋が上手い具合に金メダルでも獲ってくれたならば、お祭り好きの感動好きなニッポン人はますますそちらへ釘付けになってくれるので、為政者たちにとってはより好都合なのだ。
さう考へると、感染爆發に医療崩壊がとっくに起きてゐる“緊急事態”にも拘はらず、茶番大運動會だけがまったくの浮世離れで強行されたのも、納得がいく。
為政者たちにとって、改憲工作に気付かれぬための“目隠し”になればそれでよいのであり、無観客開催であっても開催さへすれば國民の意識はそちらへ逸れるので、なんら問題はないのである。
もっと云へば、“無料奉仕隊(ボランティアスタッフ)”など、ゐやうがゐなからうが、初めからまったく問題ではないのである!
私が七月二十四日にあの人たちを見た時、なんとも哀れさを覺えたのは、そのためだったのだ。
もちろんこの改憲工作は、都市封鎖の合法化だけが案件ではないことを、よく注意しなければならない。
この工作が國民に感付かれてはマズい本當の理由も、そこにある。
また、緊急事態にかこつけた異様な飲食店イジメは、
相手を自滅させたあとに、夷國の飲食店業界を据ゑやうとの工作と、私は仄聞してゐる。
さう、これらは仄聞にすぎない。
それを基に、手猿樂師としての活動を抑へてゐる暇人が、暇を持て余して勝手に想像を逞しくしてゐるにすぎない。
役者志望と稱する事實上の無職な暇人が、暇で屁理屈をこねる時間が潤澤にあるがゆゑに、御立派だが現場で實踐できる心配も気遣ひも無い演技理論をつねに懐中してゐるのと同じ次元である。
だが、いまの為政者たちにこの人災疫病禍を終熄させる意志の無いことは、確かであると思へてならない。
さて、かの完徹式には徳の無いミカドの名代として、自分の娘の結婚問題ひとつ処理できない女優賀茂さくらの息子が出席云々。
かうした誰からも歡迎されてゐない宮サマが出席するあたりからも、この茶番大運動會がいかなるものであったかがよく示されてゐる。
さすが、“象徴テンノウ制”の立場をよく理解しておられると、「拝察」せり。