お正月を奥丹後で迎え「丹後路」を楽しんできたはずが、いざブログに書こうとすると知らないことばかり、あれこれと迷い後回しにしている内に一月も終わりに近づいてしまいました。今さら「丹後記」もないかと思いましたが、ふと思い出したのが「つれづれなるままに・・・(徒然草)」の一文。で、文字通り思いつくままの一文です。
旅の始まり
「京丹後の宿が取れたから今年のお正月は京都だよ!」と娘からお誘いのメールが来た時、気軽に「了解」と返事をしました。でも「京丹後」の何処に宿が取れたのか、どこが目的地かも聞かなかったのです。それが私の認識の甘さでした。丹後はそう甘い処ではなかいことに気が付いたのは旅に出てからでした。
山陰線ホームで電車を待つ人。
大晦日に静岡から新幹線で京都駅に、駅はお正月を故郷で過ごそうという人や旅行客でいっぱいでした。さて旅の宿泊地「久美浜」とは何処なのか? それには何線に乗ればいいのか? そんな幼稚な疑問から不勉強な私の丹後行きは始まりました。
先ずはjR山陰本線、行先は「豊岡」です。兵庫県北部の中心都市と聞いてはいましたが知識はなし。聞いたことのない駅名に戸惑いながら、車窓に現れる景色をじっと眺めていました。景色は次第に田園風景になり、田畑はやがて林になり林は山になって、何処までも何処までもひたすら北上していきますが特別なものは何も・・・ないのです。
2時間ぐらいしてようやく町らしい風景が現れました。そこが「豊岡」でした。そこからまたバスに乗り換え山あいの道をくねくねと走り、さらに海沿いの道をくねくねと行くと、静かな湖のようなところに着きました。そこが日本海の入り江の「久美浜」で,人気のない淋しい処でした。大げさに言えば遥々と日本列島を縦断してよくきたな・・という感じ。
タイムスリップして平安の奥丹後へ
どうやら「大江山」とおぼしき写真。
宿について一休みしてからガイドブックを開いてみました。そして驚きました。京都から兵庫県に入って越える小高い山の名が「大江山」だったのです。そして「オオエヤマ」の先に見えるのが「アマノハシダテ」なのです。とっさ私の頭はタイムスリップして百人一首の一句が頭に浮かびました。
私の子どもの頃の思い出
子どもの頃、お正月のいちばんの楽しみは「百人一首」でした。晴れ着を着て家族全員が八畳間に集まってかるたを取る・・・・。歌の読み手は母で、上の句を読んだ後にちょっと間を置いてからおもむろに下の句を読む・・・。年上の兄や姉たちは、その上の句の一音を聞いただけでサッと手を伸ばし札を飛ばす。それをよそ目に私たち下の子は。自分の知っている一枚の取り札を大切に囲みこんで、それが読まれるのをじっと待つのです。(それが誰かに取られようものならワッと泣きだしたりして)それでも最後に2~3枚が取れれば大満足、上機嫌な楽しいお正月の行事が「かるたとり」でした。今考えれば家族全員の安上がりな娯楽だったのですが、そんなことを毎年繰り返していましたから私たち幼い子供たちも、いつの間にか自然に百人一首を覚えていました。「オオエヤマ」とくれば「マダフミモミズアマノハシダテ」です。歌の意味など全く知らないのに、そう丸暗記して覚えていました。その大江山に違いないのです。
大江山生野の道の遠ければまだ踏みも見ず天橋立 古式部内侍
これは百人一首の中にある古式部内侍の歌なのですが、古式部内侍というのは和泉式部の娘。紫式部や清少納言と共に平安中期を代表する女流歌人として昨年のNHKの大河ドラマ「光る君へ」にも登場していた人物、その人の娘、古式部内侍がこの「大江山・天橋立」の歌を詠んでいたのです。
天橋立の案内看板
当時(平安中期の1000年頃)母の和泉式部は地方に赴任した夫の橘道貞と共に丹後にいました。娘は都で宮遣いをしていましたが母に負けない歌人として知られていました。誰かが「そのお歌、お母さまに代筆してもらったのでは?」と聞いたのでしょう。問われてすかさず古式部内侍が返した歌が「まだ文も見ず天橋立」です。歌の意味は掛詞を使った次のようなもです。
大江山を越え生野を通る丹後の道は遠すぎてまだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません
京都と丹後はあまりにも遠く、簡単に手紙のやり取りのできるような距離ではありません。京から奥丹後に行くには数日がかかります。女の足では難儀な道のりです。そんな時代に和泉式部は丹後にいたわけです。京から丹後までの過酷な旅をして・・。
急に奥丹波も天橋立も、他人ごとではない身近な存在に思えてきたから不思議です。
言葉の持つ不思議・面白さ
思いがけない5文字の言葉から不思議な力をもらって、いろいろなことを考えました。兄や姉たちが取り札にしていた歌にも、きっとそれぞれの思いが託されていたに違いありません、百人一首には恋の歌が多いからです。そして、大江山に住む鬼の話や天橋立の国生みの話は、和泉式部や古式部内侍が子どもの頃にきっと聞かされていたに違いない・・そう思うのです。それが言葉の不思議、言葉には不思議な魔法があるのです。
天橋立駅とその案内図
子どもの頃覚えた一かけらの言葉から思いがけない奥丹後の姿を教えてくれた今回の旅に感謝です。本当にありがとう。
百人一首を編んだのは藤原定家です。平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した100人の歌人を択んで勅撰和歌集を編みました。それが中世から近世初期にかけ貴族の間で尊重され、さらに江戸時代になると「歌かるた」として普及します。そして昭和になると私たち庶民の間にも「かるた取り」として普及しました。おかげで知らず知らずに古文になじみ、昔の人の心と出会いました。「ことば」の持つ力に驚かされます。
次の日、私たちは天橋立に行きました。そのおはなしはまた・・ね。