八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
中国山地の日本海側に位置する島根県は、その面積の八割を森林に覆われているため、朝夕は山々から雲が立ち上り幻想的な風景をつくりあげます。上記の「八雲立つ」の歌は、まさしくそんな風景を詠ったもので、「出雲」という地名は、この「八雲立つ」からきているといわれています。古事記ではこの歌を、スサノオの命が素賀の地に宮を造る時に立ち上がる雲を見て詠んだ歌、と記しています。
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昨年、イザナミ・イザナギが国生みをした「淡路」を訪ねました。
出雲を訪れるにあたって思ったのは、国生みで産み落とされた神々のことでした。
出雲大社に参拝、「出雲神社は縁結びの神様」だけど「誰が縁結びをするの?」と思ったのです。
「神在り月」に全国から集まる神々たちが台帳を基に協議する・・・?
曖昧な知識にあきれながら、古事記を調べました。
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イザナギ・イザナミの神は、国生みをした後たくさんの神を産み落とします。が、イザナミは、火の神を生んだ後女陰を焼かれ、黄泉の国に行ってしまいます。イザナギは黄泉の国までイザナミに会いに行きます。が、イザナミはすでに死者の姿になっていて、イザナギは黄泉の国から追い返されます。天つ国に帰ったイザナギは、禊をして身を清めます。その時生まれたのが、左の眼から「アマテラス」、右の目から「ツクヨミ」、鼻から「スサノオ」です。三神は、アマテラスは「高千穂」を、ツクヨミは「夜の国」を、スサノウは「海」、を収めるように言われます。しかし、スサノウは、母を慕って泣いてばかりいます。怒ったイザナギは、スサノオを高天原から出雲に追放します。 出雲についたスサノオは、そこで、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治という大きな仕事を成し遂げます。大蛇退治に成功したスサノオは、その地の神の娘クシナダヒメを妻に迎え、それからはすっかり大人の神になって、出雲に家をつくり出雲を守ります。
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ということは、出雲大社はスサノオ神社でも不思議ないのです。ところが、スサノオは、出雲の国起こしのスタートランナーで、第2ランナーは、オオナムジ(後のオオクニムシ)になります。
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古事記の舞台も、急進展し、主役は、スサノオから六代後の孫 オオナムジに移ります。スサノオの6代後ということは数百年が経過したということです。 オオナムジには大勢の異母兄弟がいて、その八十神たちが、オオナムチを亡き者にしようと次々と作戦を練ってきます。最初は、猪と偽って赤く燃えた火で、次には、巨木の楔でオオナムジを殺そうとします。が、いずれも母が助け出します。たくさんの災難を乗り越えたオオナムジを、母親は「根の堅洲国」へ行かせます。根の堅洲国とはスサノオのいる国です。その入口の黄泉比良坂(黄泉の国の入り口)で、彼はスサノオの娘スセリヒメと出会い、たちまち恋におちます。
ところが試練は続き、今度はスセリヒメの父であるスサノオが数々の難問を課してきます。それ等を何とかやり過ごして、二人の逃避行は成功。スサノオもやっと二人を許します。そして、「お前が葦原の中つ国を治めて オオクニヌシノ神と名乗り、スセリヒメを妻とし立派な宮殿を建てて住むがよい」といいます。オオクニヌシは、出雲を中心に周辺の国々を支配し、たくさんの妻を持ち、たくさんの子を産み、出雲の王になります。
出雲神社の千木
繁栄を続ける葦腹の中つ国でしたが、今度は、天つ国の アマテラス大御神が、その絶大な権力を持ってオオクニヌシに国譲りを迫ってきます。あれこれと策略を練ってくるアマテラスに、オオクニヌシは国譲りを受け入れます。その時約束したのが、「しっかりした土台の上に、天まで届く高く太い宮柱を建て、千木をそびえさせた神殿を造って、オオクニヌシを祀る」ことでした。その後に造られたのが、出雲神社 である、と古事記は記します。
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出雲大社の帰り、近くの「島根県立古代出雲歴史博物館」に行きました。
島根県立古代出雲歴史博物館の展示物・荒神谷で発掘された銅矛
この地で発見された 銅剣・銅矛・銅鐸 が驚くほどたくさん展示されています。
見事な造形、時を経たものだけが持つ風格、静謐な美しさ、思わずため息がでるほどです。
銅鐸は完全なものばかりでなく、無残に破られたり破壊されたりしたものもあります。
出雲に何かが起こったのでしょう?
秘められた物語が、気になります。
何かの理由で破壊されたと思われる銅鐸
1984年、「荒神谷遺跡」からは、 銅剣358本、銅鐸6個、銅矛6本
1996年、加茂岩倉遺跡からは、39個の銅鐸が発掘された。
いずれも、整然とした形で埋められていた。
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出雲について書いた梅原 猛氏の「葬られた王朝」では、「かつて出雲の地には、スサノオやオオクニヌシらの支配する『出雲王朝』があった。その王朝が倒され、権力は大和に移った」と推論します。梅原氏は、その前提のもとに出雲を訪ね、検証を重ねます。そして、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で見つかった銅剣や銅鐸の埋蔵物こそは、出雲王朝の存在と崩壊を語るものではないか、結論づけます。
出雲には、出雲大社を中心に、佐太神社・八重垣神社・熊野神社・揖夜神社・美保神社・御井神社・斐伊神社・佐世神社・等々たくさんの神社が現存し、稲佐の浜・猪の目の洞窟・加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡・黄泉比良坂・等々、記紀に登場する場所や地名がたくさん実存していることは確かなことです。
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では、どうして 銅鐸は埋められたのでしょう?
どうして銅鐸を壊さなければならなかったのでしょう?
その時、出雲の民たちは何を思い、何をしたのでしょう?
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緑いっぱいのハスに囲まれた荒神谷遺跡が、古代へのロマンを誘います。
ハスあおく ロマン秘めたる 荒神谷