朝のあいさつ運動のお当番(クラスごとに父兄が校門に立って子ども達に”おはようごさいます”の声かけをする)をしていた時のこと。
1人のママ(同じ支援級)が目を吊り上げ気味に2年生くらいの女の子を連れて、先生に何やら耳打ち。
どうやら、その子が登校班で”支援級の子はイヤだ。一緒に歩きたくない。”と、差別的発言をよくするらしい。
”自分がいくら言っても聞かないから、先生から注意してください。” という話だった。
さすがに先生は目線をその子に合わせて穏やかに言い聞かせてたみたいだけど、どうやらその後その子の担任やら親、校長先生にまで話が行って、学校として考えるみたいな展開?になったらしい。
うーん、気持ちはわかるんだけど、そういうやり方で良かったんだろうか? と思わなくもない。
後で先生は ”自分より下に見える存在がいることで安心し、現在の自分に満足する人もいる”と言ってたけど、確かに世の中そういうことはあると思うけど、小学校低学年でそこまで なのかな?
あの女の子はみんなの前で言われて、親にもチクられて(たぶん家でも叱られただろう)、それで”もう差別はやめよう”って思ってくれたならいいけど...。
W学級のことで叱られた、イヤな思いさせられた ってそういう気持ちだけが残ったりはしないだろーか?
私は現場をまったく見ていないので、単なる想像にすぎないけど
過去にW学級の子に何かイヤな思いをさせられた とか、あるいは親が言ってるのを単純に真似してるだけ とかだってあるのかもしれない。
そうじゃなくても、人間って 自分とは違う(集団からはみ出しがちな)人には何となく警戒心抱きがちなもの。
自分の想像の範囲を越える言動をする人には恐怖感やら生理的嫌悪感を覚えたりもする。
それ自体は本能的なもので、きっと誰にでもあると思う。
だけど、人は成長していくに連れて知識を得て、さらに理性で本能的感情をコントロールすることもできるようになる。
だから表立っては言わなくなる。
でも、それって差別的感情がなくなったってことではないかもしれない。ネット上とか匿名の世界だと酷かったりするもんね。
正直に言うと、私自身バンビの親になるまでは”知的障害者の人って何するかわからなくてちょっと不安で恐い”と思ってた。
もちろんその気持ちを表には出さないけど、それは障害者への理解でも何でもなくて、触らぬ神に祟りなし的な対応に過ぎなかったと思う。
誰にでもそういう本能的な気持ちがあるからこそ(もちろんない人もいるかもしれないけど)
声高に”差別はひどいことだから絶対いけない!”って糾弾されちゃうと、それが社会的正義だけに、ごめんなさいって言っても どこかネガな気持ちが心のダークサイドに積もっていくようなそんな気がしてならない。
(説明になってるだろーか?)
それで差別解消になるんだろうか?
”障害者はある一定の割合で生まれてくる。人類の生物学上の進化の課程で必要不可欠な貴重な(”勇気ある”だったかな?)存在である。”的な文章を、障害者関係の何かの資料で目にしたことがあったんだけど
確かに医学的・生物学的にはそうなのかもしれないけど、でもそういう言い方で健常者が障害者のことを ”人類の進化のために障害背負って生まれてきてくれてありがとう。”とは思わないと思うけどな...。
ほんとに伝えるべきは、そういうことなんだろうか?
誰にでも得意なことと苦手なことがあるよね。
Aちゃんは 算数で100点取ったけど、どんなに頑張っても徒競走ではビリ。
Bちゃんは 勉強頑張ってもテストで100点取れないけど、スポーツは万能。
でも、徒競走ビリじゃダメなの? テストで100点を取れなきゃダメな子なの?
そんなことないよね。
みんな 頑張ってもうまくできることとできないことがあるでしょう。
障害者と言われる人には、苦手なことやうまくできないことが他の人よりは多いかもしれない。
でも、だからってダメな人間なの?
そんなことはないよね。 他の人より上手にできることもあるんだよ。
上手にできる人はできなくて困っている人を助けてあげればいい。
みんなで助け合い支えあうことが、人間として生きるってことだよ。
誰でも 他の人にひどい言葉を言われたり、嫌われたりしたら悲しくなるよ。
あなたが悲しい想いをすると心配してくれるお父さんやお母さんがいるように
障害をもった人にもお父さんやお母さんがいて
あなたがお父さんやお母さんにとってかけがえのない大切な存在であるように
その人もその人のお父さんやお母さんにとってはかけがえのない大切な存在なんだよ。
障害のある人もない人も、勉強やスポーツが得意な人も苦手な人も、みんな同じ。
この世に生まれた かけがえのない大切な命なんだよ。
障害者の親として、障害者への差別のない世の中になってほしいと思う。
だけど、つまりそれは一人ひとりの人が大切にされる世の中ってことなんだと思う。
誰かを下に見ることでしか安心できない、自分に満足できない そんな人生は悲しい。
メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp
1人のママ(同じ支援級)が目を吊り上げ気味に2年生くらいの女の子を連れて、先生に何やら耳打ち。
どうやら、その子が登校班で”支援級の子はイヤだ。一緒に歩きたくない。”と、差別的発言をよくするらしい。
”自分がいくら言っても聞かないから、先生から注意してください。” という話だった。
さすがに先生は目線をその子に合わせて穏やかに言い聞かせてたみたいだけど、どうやらその後その子の担任やら親、校長先生にまで話が行って、学校として考えるみたいな展開?になったらしい。
うーん、気持ちはわかるんだけど、そういうやり方で良かったんだろうか? と思わなくもない。
後で先生は ”自分より下に見える存在がいることで安心し、現在の自分に満足する人もいる”と言ってたけど、確かに世の中そういうことはあると思うけど、小学校低学年でそこまで なのかな?
あの女の子はみんなの前で言われて、親にもチクられて(たぶん家でも叱られただろう)、それで”もう差別はやめよう”って思ってくれたならいいけど...。
W学級のことで叱られた、イヤな思いさせられた ってそういう気持ちだけが残ったりはしないだろーか?
私は現場をまったく見ていないので、単なる想像にすぎないけど
過去にW学級の子に何かイヤな思いをさせられた とか、あるいは親が言ってるのを単純に真似してるだけ とかだってあるのかもしれない。
そうじゃなくても、人間って 自分とは違う(集団からはみ出しがちな)人には何となく警戒心抱きがちなもの。
自分の想像の範囲を越える言動をする人には恐怖感やら生理的嫌悪感を覚えたりもする。
それ自体は本能的なもので、きっと誰にでもあると思う。
だけど、人は成長していくに連れて知識を得て、さらに理性で本能的感情をコントロールすることもできるようになる。
だから表立っては言わなくなる。
でも、それって差別的感情がなくなったってことではないかもしれない。ネット上とか匿名の世界だと酷かったりするもんね。
正直に言うと、私自身バンビの親になるまでは”知的障害者の人って何するかわからなくてちょっと不安で恐い”と思ってた。
もちろんその気持ちを表には出さないけど、それは障害者への理解でも何でもなくて、触らぬ神に祟りなし的な対応に過ぎなかったと思う。
誰にでもそういう本能的な気持ちがあるからこそ(もちろんない人もいるかもしれないけど)
声高に”差別はひどいことだから絶対いけない!”って糾弾されちゃうと、それが社会的正義だけに、ごめんなさいって言っても どこかネガな気持ちが心のダークサイドに積もっていくようなそんな気がしてならない。
(説明になってるだろーか?)
それで差別解消になるんだろうか?
”障害者はある一定の割合で生まれてくる。人類の生物学上の進化の課程で必要不可欠な貴重な(”勇気ある”だったかな?)存在である。”的な文章を、障害者関係の何かの資料で目にしたことがあったんだけど
確かに医学的・生物学的にはそうなのかもしれないけど、でもそういう言い方で健常者が障害者のことを ”人類の進化のために障害背負って生まれてきてくれてありがとう。”とは思わないと思うけどな...。
ほんとに伝えるべきは、そういうことなんだろうか?
誰にでも得意なことと苦手なことがあるよね。
Aちゃんは 算数で100点取ったけど、どんなに頑張っても徒競走ではビリ。
Bちゃんは 勉強頑張ってもテストで100点取れないけど、スポーツは万能。
でも、徒競走ビリじゃダメなの? テストで100点を取れなきゃダメな子なの?
そんなことないよね。
みんな 頑張ってもうまくできることとできないことがあるでしょう。
障害者と言われる人には、苦手なことやうまくできないことが他の人よりは多いかもしれない。
でも、だからってダメな人間なの?
そんなことはないよね。 他の人より上手にできることもあるんだよ。
上手にできる人はできなくて困っている人を助けてあげればいい。
みんなで助け合い支えあうことが、人間として生きるってことだよ。
誰でも 他の人にひどい言葉を言われたり、嫌われたりしたら悲しくなるよ。
あなたが悲しい想いをすると心配してくれるお父さんやお母さんがいるように
障害をもった人にもお父さんやお母さんがいて
あなたがお父さんやお母さんにとってかけがえのない大切な存在であるように
その人もその人のお父さんやお母さんにとってはかけがえのない大切な存在なんだよ。
障害のある人もない人も、勉強やスポーツが得意な人も苦手な人も、みんな同じ。
この世に生まれた かけがえのない大切な命なんだよ。
障害者の親として、障害者への差別のない世の中になってほしいと思う。
だけど、つまりそれは一人ひとりの人が大切にされる世の中ってことなんだと思う。
誰かを下に見ることでしか安心できない、自分に満足できない そんな人生は悲しい。
メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp
そうだよね。障害がどうのってことではなく、一人ひとりが大切にされる世の中ってことなんだよね。
もしかして支援級の子がいやっていうのには、なにか理由があるのかもしれない。○○するからイヤとか。でもそれを周りの大人が、○○ちゃんは、○○○だから、○○しちゃうんだよとか、当たり前のように話してあげることができたら、それが理解につながるかもしれない。自分以外の誰かのことを、理解しようと思えるかどうかで、人はすごく変わっていくよね。
そうだね。うちのクラスは割と落ち着いた子が多いんだけど、中には マイワールドの中に入り込んで何か他の人にはわからないことを話したり、周りのペースに合わせられない子もいたりするんだよね。
だから、いきなりわけわからないことしゃべって恐い とか、歩くペースが合わないからイヤ とかがあるのかもしれない。
それを ”そんなこと言っちゃダメ。支援級の子とも仲良くしなさい。”って言われてもね。
何の解決にもならないと思う。
りっきママさんの言うとおり、周りの大人がそういう子の理解につながるようにちゃんと話してあげられたらいいよね。
「差別はやめろ」って相手を糾弾する前に、私達は障害のことをもっと知ってもらって、その人自身を理解してもらうような努力をするべき なんだろうね。
うちは0歳から一緒の保育園で朝から晩まで6年間共に生活してて、多分他よりも理解があるはず。。
喧嘩になっても本人が立ち直りやすいように優しく手助けしてくれる場合もあったり、サラが歩くのが遅くても待ってていてくれる優しさもある反面、、、一緒で遊ぶシーンで1人だけ仲間にいれてもらえなくて1人ぼっちになる場面も多数あるみたい。
差別とは違って、、、色んな約束事が本人がわかっていないので一緒に何かをするってことが周りの負担になったり今はいないほうがスムースにいくからその時だけ無視されたりするわけ。。
でもこれって仕方ないことなのでは?と思う。
きっと子供達の世界にも色々ルールがあって
今は優しく出来るけど今は思い切り遊びたい
って、、、当たり前のことだと理解してるから、そういう1人ぼっちのシーンではそっとサラの手を引き皆から離れるようにしてる。。
現実を受け入れないといけない時もあるもんね。
もっともっと周囲に理解してもらって、優しい気持ちになってもらえるよう努力するのが、うちら親の仕事だと思うんだ!!!
一緒にガンバロ~♪
特に子どもの世界は良きにつけ悪しきにつけストレートだからね。
でも、大人のように そこに存在しないかのように無視したり、悪意を裏に隠したりしないだけ良いのかも。