この話のタイトルを「ニカラグァ米」としたが、先に書いたようにニカラグァは国の名前である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2
北アメリカ大陸と南アメリカ大陸をつなぎとめるような位置にある。
当時、子どものわたしは、この国名を聞いた時、余程印象に残ったのだと思う。
子どもの中でそんな国を知ってる者はだれもいなかった。それを自分は知っているという優越感を持ったものだ。
さて、昭和23年ごろの我が家だが、前のページの写真のように、配給所の建物の中で居住していた。6畳一間だった。
配給所には大きな土間(コンクリート)があり、そこに配給品の薩摩芋などが山積みされ、大きなスコップで扱われていた。
隣は畑だった。これは父が管理していた。
この場所、今「喫茶・輪」になっている。
トウモロコシが写っている。男の子はわたし。隣の女の子は誰か覚えがない。近所の子供だろうが誰だろう?大きさからして多分、魚谷さんの多津子ちゃん。若い男性は桜井さんと言った。
この人、後に事件を起こす。
左後ろがお地蔵さんの境内。そこは、近所の子どもたちの恰好の遊び場所。
ある日、田淵さんの正さん(多分中学生ぐらい)が空気銃を持って来ていて、みんなで触らせてもらっていた。わたしたち子どももたまに撃たせてもらったり。戦後のドサクサ、エライ時代である。今なら考えられない。
道を挟んで日本盛の空き地があり、高い塀で囲われていた。その塀の上に止まったスズメを正さんが撃ち落としたのだが、塀のあちら側に落ちた。それを取りに彼は塀に登っていった。その時、なぜか桜井さんがいて、空気銃に手をかけ、至近距離から蓑田たけし君の顔に照準を合わせた。塀の上からそれを見た正さんが「あぶない!弾、入ってる!」と大声を上げたが、桜井さんは引き金を引いた。わたしはすぐそばでこの様子を見ていた。ジャムパンを持っていたたけし君は、それを手からポロリと落とした。赤いジャムが糸を引くように落ちた。そして、たけし君の左頬から同じ色の血がす~~っと流れた。
その直後のことはなぜかよく覚えていない。あとで近所で大変な騒ぎになった。
当然、正さんは叱られただろう、二度と空気銃を持たせてもらえなかった。
たけし君はその後永く、頬に手術の傷跡が残っていた。今も残っているのではないだろうか。最近、99歳で亡くなったお母さんの葬式に来ておられて、何十年ぶりかでお会いしたが、花粉症とかで顔をマスクで覆っておられた。
つづく
追記 (2013年1月21日) 写真の女の子、思い出した。隣に住んでいた朝日さんの女の子だった。名前は覚えていない。この顔、お母さんにそっくりだ。特に目元。
私は思い出せないことが多いです。認知症なのでしょうか?
でもしばらくの間一緒に暮らしたことは覚えています。
おじちゃんは西宮へ帰るときには必ず汽車の窓から身を乗り出して、何かを叫びながら大きく手を振っておられました。
情の厚い良いおじちゃんでした。