昔のことを思いだして少し書いておこう。
わたしが子どものころのことである。
シベリア抑留から帰って来た(多分昭和22年末か23年初め)父親は、体力を回復してから今の場所に住み、配給公団の仕事についた。抑留から帰って来た当初は体重が元の半分の8貫目(約30㎏)になっていたと後に聞いた。
父は自動車の免許を持っていたのでオート三輪で各配給所へのパンの配送をしていた。
わたしは、その助手席に乗せてもらったことを微かに覚えている。ドアに窓はついておらず、乗りこんで、肘のあたりに棒を倒して固定し、それが転落防止だったと記憶する。運転者は真ん中にまたがるように座り、ハンドルは丸ではなくバーハンドルだった。
住んでいるところも配給所の一つだった。
そのころの写真。
座っている子どもがわたしである。父はこのころ、ここでは働いてはいない。
ここに写っている人の名前、小路さん、桜井さん、女性は名川さん。あと二人の名は思いだせない。ここに写ってはいない主任さんは白井さんと言った。
このころは、食料はみな配給制度。お米は通帳を持って買いに来ておられ、学校の南門のあたりまで並んでおられた。
外米(がいまい)と呼ばれる輸入米が多く提供されていた。
覚えている国の名。
インド米、ベトナム米、タイ米、パキスタン米、イタリア米、エジプト米、スペイン米、朝鮮米、中国米、台湾米、テキサス米、加州(カリフォルニア)米などが輸入されていた。そして、ニカラグァ米というのがあった。子どものわたしは初めて聞く国名だった。
つづく