地理の部屋と佐渡島

2009年4月よりの佐渡単身赴任があけ、2014年4月より長岡へ。別れが絆をより深めた。今後ともよろしくお願いします。

新発田城

2005年04月08日 20時19分56秒 | 新潟地理歴史
 4月6日(水)の午後のことです。いとこの病気見舞いのために新発田市に行ってきました。同じ県内ではありますが、久しぶりの新発田です。関越自動車道から国道7号新新バイパスを経て、市街地内にある病院に行きました。

 病室の窓から城跡が見えました。いとことは一時間ほど談笑したのですが、しばらくあうこともなかったので、盛り上がりました。さて、お見舞いをすませた後ですが、ついつい新発田城に立ち寄りました。

 再建された櫓を望むのにちょうど良い盛り土部があります。今回紹介している写真はそこで撮りました。堀端には桜の並木があり、花見の頃には花見客で賑わうようです。ここを訪れた四月六日はまだつぼみのままでしたが、少しふくらみ始めており、開花も近いなといったところでした。

 ちょうど写真撮影した場所に、説明書きの看板がありました。全文を書き出しておきましたのでご覧ください。

 【新発田城】
 この城は。慶長三年(1598)に越後蒲原郡六万石(のちに五万石、十万石となる)の領主として加賀大聖寺から移封された溝口秀勝が、上杉景勝と戦い落城した新発田重家の城跡をとり入れて築いたもので、版籍奉還まで約二七〇年間、外様大名溝口氏の居城となってきた。

 平地につくられた城で、構えは本丸を二ノ丸が取り囲み、南に三ノ丸をつき出し、その南東端に大手門を開いた南北に長いひょうたん状をなしており、南西部一帯に城下町がつくられている。本丸は藩主、二ノ丸の南半分と三ノ丸は家老など上級藩士の居住地であり、中級以下はこれらをとりまいて住んでいた。

 一名菖蒲(あやめ)城、舟形城、狐の尾引城などとも呼ばれ、江戸末期には事実上の天守閣である三階櫓や大手門をはじめとして櫓が十一、主な門が五棟あったが、明治初年に新政府の命令でとり壊され、堀も次々と埋め立てられて、今は表門、旧ニノ丸隅櫓、本丸の石垣と堀の南半分、土橋門跡土塁を残すのみである。

 表門(本丸正面)と旧二ノ丸隅櫓は昭和三二年、国の重要文化財に指定された。そして、昭和三四・三五年に解体修理を行い修復したものである。旧二ノ丸隅櫓は、もと二ノ丸北部にあったが、このとき今の場所、本丸鉄砲櫓跡に移された。

 表門は、享保一七年(1732)に再建された二階建ての櫓門で、旧にノ丸隅櫓は、寛文八年(1668)の大火後再建された二重櫓である。ともに腰まわりが瓦張りのなまこ壁となっており、北国の地域性と風情が感じられる。




 訪れることがあったらご注意を..。新発田市内は城下町ですので道が面倒です。城下町の道路が迷路のようになっているのはどこもそうでしょうが、私のようなものぐさにはやっかいなところです。ただ、街路形態が城下町らしさを残していることには好感があります。

 ついでながら、長岡市の場合は同じ城下町といっても、二度の戦争(戊申と太平洋)で町が焼けているので、街路形態はかなりすっきりしています。

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