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得宗専制政治の歪みが極まり、幕府内部からですら反感をかっていた鎌倉幕府の最末期。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は天皇親政の延喜・天暦の治の再現を理想に倒幕を企てる。その倒幕への動きの始まりは正中・元弘の変であった。ただ、これは未遂に終わり、結果後醍醐方は崩壊前の鎌倉幕府によって罰せられるにいたる。
資朝はそんな正中・元弘の変の事後処理の中で処刑されるに至った。もう少し機が熟するのが早ければ..。やっ、歴史にたらればは無いのが常識であった。
【墓の横にあった説明書きから】
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後醍醐天皇の正中二年(一三二五)十二月、日野資朝は北条高時のために佐渡に流され、檀風城に幽閉されること七年、元弘二年(一三三二)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。 資朝は明治八年真野宮に合祀され同十七年に従二位を贈られた。
真野町教育委員会
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写真撮影:2006:12.29 佐渡市真野竹田
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2007年 地理の部屋と佐渡島 sadorekisi
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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今夜は冷たい雨が降ってます。
日野資朝のお墓ですね。
資朝と共に倒幕に加わった側近の日野俊基の
お墓は鎌倉にあります。
日野資朝と言えば「徒然草」の第152~第154に
彼のエピソードが載ってます。
俊基の墓は私も昨年三月の鎌倉の旅の際に
行きました。なんかとっても嬉しかったです。
さて、徒然草ですか。
学生時代の古典で習って以来、触れたこと無
いものなぁ..。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
ありがとうございます。
リンク先まで感謝です。
勉強しなきゃぁ..(笑)。