新潟地理歴史・写真撮影:2008.10.13
毎年三月三日の多聞青年団による裸押し合い祭りで知られる。
Photo-01
約1200年前に建立されたお堂には日光の陽明門にならったという総ケヤキ造りの楼門をはじめ、双龍図板絵などの寺宝が納められています。
▲南魚沼市おまかせBOOKより
注:建立は坂上田村麻呂によると伝えられている。また、双龍図は谷文晁の作である。
毘沙門堂はJR上越新幹線・浦佐駅から徒歩で行ける場所にある。上杉謙信も戦勝祈願をした場所という。祭りのある時でなくとも訪れたい場所である。
Photo-02
Photo-03
Photo-04
裸押合大祭(3月3日)
日本三大奇祭の一つとして有名な浦佐毘沙門堂の裸押合大祭は、毎年3月3日に南魚沼市浦佐にある普光寺で行われる毘沙門様の例祭です。
多聞青年団と信者、それに多くの参拝者によって厳粛かつ勇壮に行われる伝統的な祭りで、「国の無形民俗文化財」に指定されています。この祭りが終わると魚沼にもようやく春が訪れます。
▲直江兼続と南魚沼市より
Photo-05
Photo-06
Photo-07
Photo-08
Photo-09
Photo-10
上杉景勝
景勝は弘治元年(1555)坂戸城主長尾政景の嫡子として生まれた。母は、仙洞院(上杉謙信の姉)。永禄七年、父政景の急死によって十歳で城主となり、以来頑強な上田衆を率いて叔父謙信の関東厭征戦に従い数々の戦歴を重ねる。
天正三年、謙信の養子となり本城春日山に入城。同六年謙信の死後、お館の乱(後継者争い)を勝ち抜き越後国主(二十四歳)となる。
天正十年、織田信長の越後侵攻をしのぎ、同十四年豊臣秀吉と盟約、のち、豊臣政権の繁栄に貢献、会津百二十万石という歴代三位屈指の戦国大名の地位を確立した。
慶長二年に五大老となる。秀吉の死後、徳川家康との確執が激化、会津一国を持って徳川連合軍を迎え撃つ。関ヶ原の戦いののち、米沢三十万石となるが、物事にこだわらず、己の信念を貫き、爽やかに戦国を生き抜いた。兼続の良き理解者。
▲直江兼続と南魚沼市より
【毘沙門堂・関連サイト】
http://local.goo.ne.jp/niigata/leisure/spotID_TO-15000494/
goo地域
http://kanko.gnavi.co.jp/spot/94/15000494.html
ぐるなび
------------------------------------------------------
写真撮影:2008.10.13 南魚沼市
------------------------------------------------------
2008年 地理の部屋と佐渡島
------------------------------------------------------
http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
------------------------------------------------------
爺のトリックアート展にお付き合い頂き有難う御座います。
建立1200年を誇る「毘沙門堂」は、威厳があり立派ですね~!
言われて見れば日光の陽明門に良く似ていますね。
彫刻の素晴らしさには、暫し見入りました。
この様な関連サイトを見るのが大好きで、ゆっくりと楽しませて頂きました。
1200年の歴史ですね、建造された時は、
部分的に朱塗りだったのかしら?
柱や細工の歴史を感じます、
全景の2枚目、素晴らしいです
地理さんが部分的に美しく映して居ますので、
豪華さや広大さまで伝わります、
この時代の宮大工さんって工具の無い時代なのに、
素晴らしいですね、
この毘沙門堂は3月3日に
最もにぎわいます。
裸押合祭り。すごいですよ。
そうなのです。
もとは越後でして、豊臣秀吉に見込まれ
加増される形で会津へ。しかし、そのの
ち徳川の代になると関ヶ原の始末で米沢
に転封されたのです。
風雪にさらされ、今はすこし枯れた
感じになっています。風合いとして
はその方が目になじみますよね。
さて、おっしゃるとおり、当時の大
工さんたちの苦労いかばかりであっ
たか..。考えてしまいますよね。
ライブドアブログでは閲覧・記事投稿が出来ない状態です。
上のURLからお知らせページへジャンプしますので・・・
回復しましたらよろしくね。
すみませんでした(ぺこり)
ご連絡感謝でした。
再開のお知らせを聞きましたから
これからおじゃまいたします。
佐渡や新潟の自然満載で感動しました。小生、親父が佐渡出身で、自分もついこの間まで本籍は佐渡郡北田野浦でした。
佐渡は子供の頃の記憶しかないので、地理佐渡さんのブログでしばらく勉強させていただきます。ありがとうございました。