新潟地理歴史・写真撮影:2008.10.26
街の背後の山腹に寺がある。
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そう大きな寺ではないが、なかなか見所のある寺だ。紅葉の時期にはまだ早かったのが惜しまれる。この寺の本堂は再建されてまだ二世紀と経っていないと説明からわかるが、少しは枯れた感じもあって落ち着きがある。庭の中央には良寛の詩歌碑があった。碑に何と書かれているか。写真では読み取れないのが惜しまれる。
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良寛・三条地震の詩歌碑
文政11年11月12日、突如として三条を中心とする大地震が起こった。この時の被害は、死者1600余人、傷者2500余人と伝えられ、希有の大惨事であった。良寛さまの草庵は無事であったが、友情にあつい良寛さまは、各地の友人知己にそれぞれ見舞い状を出されて慰めたり励ましたりされた。もっとも親しい友人、与板の山田社皐にあてた書簡の末尾には、
災難に逢時節には災難に逢がよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
との有名な言葉が書き添えられている。徳昌寺では翌文政12年春、地震の犠牲者となった無縁仏を供養するために大法要を厳修したが、良寛さまはその盛大でこと、又、その費用が全部与板藩主井伊候の寄進によったものであることを聞き、非常に感激してこの詩と歌を作られたのである。
昭和27年7月1日 香積山 徳昌寺
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徳昌寺略歴
当寺は文明11年(1479)直江兼続の祖父、昌山一徳居士(実名不明)を開基とし耕陰道夫和尚を開山として開かれる。慶長3年(1589)上杉家会津移封に伴い、直江家とともに米沢に移る(一部は与板に残る)が、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、元和5年(1619)兼続の死去寛永14年(1639)妻お船の方の死去の後米沢徳昌寺は庇護者、寺領を失い廃寺となる(年代不明)。
その後与板に残った徳昌寺は歴史的変遷の後元禄15年(1702)この場所に移り以後領主井伊家豪商三輪大阪屋の帰依を受け、又文政11年(1828)に有栖川宮の御祈願所となり現在に至る。
尚現本堂は天保7年(1836)火災消失の後嘉永6年(1853)に三輪大阪屋によって再建されたものである。 徳昌寺
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写真撮影:2008.03.09 旧三島郡与板町(現長岡市)
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2008年 地理の部屋と佐渡島
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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爺の子持観音参拝に御付合い頂、感謝致します。
再建されて200年余りとは思えない威厳さを見せてくれるてらですね~!
写真の端はしから静寂で物静かな雰囲気が伝わって来ます。
災害見舞いの良寛さんの名言に慈愛の心が感じ取れます。
徳昌寺略歴と良寛歌碑説明に納得!!
勉強させて頂きました。
地理さんのページを開いて、肩の力が
抜けました、素敵ですね、安らぎます、
木々に囲まれた全体の姿も山門も素晴らしいです、
歴史が古いのに、手入れがいいのですね、古さを感じません、6枚目の彫刻の細工も素晴らしいし、
早朝に伺って本当に、良かったです
静かなところのようですね。
与板を通って寺泊にでましたが、いつもこの街は素通りでした。
このモミジはもうすっかり紅葉したことでしょう。
昨日は東京で「ふるさと会」があり、懐かしい顔に出会いました。
でも高齢化が進み、若者が少なかったです。
時代の流れを感じました。
良寛・三条地震の詩歌碑から
先人の懐の深さを感じました。
三条地震って知らなかったですが大きな
被害が出たんですね。
やはり昔から新潟県地方は大地震が多か
ったんですね。
なかなか雰囲気のあるいいお寺です!
そうですね。そちらですと厳冬の
風雪に耐えてですものねぇ。こち
らは遙かに穏和。時間の経過には
気候的差も考えねばなりませんね。
本当にご指摘通りなんですが、
その後行く機会をもてないで
居ます。今頃でしたら..。
良寛さんの根底にある考えに
老荘思想の一端を感じます。
無為自然。なすがままに任せ、
よけいな人為は極力排除しよ
うという考え方ですね。
実に自然的発想ですが、孔孟
の思想とは全く..。