新潟地理歴史・写真撮影:2008.10.26
与板城は元々こちらから始まる。
Photo-01 (与板の町はずれにこの看板)
すでに与板城跡を紹介しているが、今回紹介のものが元々の与板城である。車を降りて歩き始めたら、本丸である実城まではそうかからない。ただし特に歩道として道の舗装はしていないから、靴が少し汚れるのを覚悟しておいた方がよい。道中も実城からも杉木立に覆われていて城下への視界をさえぎるが、森林浴気分を味わう軽い散歩となろう。
本与板城跡 新潟県指定文化財 史第62号
戦国時代の戦闘用として典型的な山城である。実城は98メートルの山頂にあり、二の郭、三の廓など主廓並列式の山城で、それぞれ土塁をめぐらし、深い空壕により区分され、主廓に通ずる橋跡もある。
主廓を中心に帯廓があり、南の廓、西の廓や前要害の廓など、さまざまな附属廓が配され、断崖絶壁の険峻で堅固な箇所が多く、戦闘的な山城である。大手口・搦手口などは、城下の館や一般武士の住居に通じている。
直江氏の居城であり、城主直江大和守実綱(後の景綱)は、長尾為景・晴景・景虎(上杉謙信)の重臣であった。 長岡市教育委員会
Photo-02
Photo-03
Photo-04 (万才閣跡)
万才閣
ここは昭和の初め頃まで万才閣護国殿をはじめ七堂伽藍が建っていました。万才閣は日清戦争における戦死者の慰霊仏二体が安置されていましたが、昭和六年火災により焼失してしまいました。
護国殿は日露戦争における戦死者の慰霊仏二体が安置されていました。特に高さ十四米の阿弥陀仏座像は与板大仏と称されていました。昭和七年風雪のため倒壊してしまいました。
仏像はすべて乾漆仏ですが、共に本与板光西寺住職藤井界雄が地元民の献身的な奉仕と、全国からの協賛を仰いで、約三十年の歳月をかけて造営したものであります。
Photo-05 (空壕)
Photo-06
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Photo-08 (城跡から見る粟が岳)
Photo-09 (空壕)
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写真撮影:2008.10.26 長岡市与板
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2008年 地理の部屋と佐渡島
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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道が狭く、大軍でも簡単には攻められませんね。
いいですね。
お気に入りです。
地域の歴史ロマン、・・・・・・。
なるほどでした。
いよいよ12月。昨晩は篤姫が「江戸無血開城」。
終わりにさしかかってきました。
さぁ、あと一月と少しで天地人へ..。
城跡はまさに夢のあとです。
往時をしのぶもののほとん
どはもう露と消え、杉木立
に覆われて、静けさだけを約
束しています。
戦国時代の城跡って色々な工夫が見られて面白いですね。
与板城跡は、きっちり管理されていて良いですね。
関東にも色々な城跡がありますが、殆どが管理されておらず
宅地開発などで壊されている所が非常に多いです。
各地の城跡をもっとゆっくり見たいのですが、
なかなか時間がとれません。焦らずゆっくり
ですね。
古城は良い雰囲気ですね。
案内図の色調が何とも好もしい限りです。
このようにある程度、あとがわかるよう
になっているところは良いですね。
特に説明や案内の看板がありますと大助
かりです。
上巻の感想を書いたので、トラックバックさせていただきました。
了解しました。
TB公開設定ですね。
させていただきます。