☆ゼロ・ダーク・サーティ(2012年 アメリカ 157分)
原題 Zero Dark Thirty
staff 監督/キャスリン・ビグロー 脚本/マーク・ボール 撮影/グレッグ・フレイザー
美術/ジェレミー・ヒンドル 音楽/アレクサンドル・デスプラ
cast ジェシカ・チャステイン ジェイソン・クラーク ジェニファー・イーリー
☆2011年5月2日0時30分、Navy SEALs、アボッターバード襲撃
オサマ・ビン・ラディンが、米海軍特殊部隊(Navy SEALs)によって殺害された、というニュースを聞いたのは、いつだったろう。なんだか、ある日、唐突に発表されたような気がする。よくおぼえていないんだけど、テレビを観ていたら、いきなり、それも淡々と報道された。
最初は、疑った。なんだってこんな突然に発表されるんだろうと。
ニセモノじゃないのかなともおもったし、真実だとしたらなにか裏があるだろともおもった。
アメリカが隠密裏に調査しているのは見当がついていたけど、まさか、主権を持った国家であるパキスタンに夜間いきなり進攻するとはおもわなかった。いったいなにが起こったんだろうともおもったけど、これでひとつのケリがついたんだろうなあとは、おぼろげに感じた。
あとになって、オバマ政権の中枢にいる人々が、ホワイトハウスでビン・ラディン襲撃の一部始終の中継を観ていたと報道されたとき、そうだよね、大統領の陣頭指揮による徹底した秘密作戦だったんだよねと感じたものだ。
で、この映画なんだけど、すこぶる、おもしろかった。
アメリカとかでも、批評家の受けはものすごく好く、完璧な映画と絶賛されているらしい。
とおもっていたら、どうやら、それなりに賛否両論あるらしい。どういうことかといえば、プロパガンダという問題だ。そのせいで、大統領選挙直前だった封切が遅らされたらしいんだけど、すぐあとになってオバマのプロパガンダではないと批評家たちがまた断言したとか。でも、そうじゃなくて、アメリカ合衆国のプロパガンダじゃないかともいわれているとか。
根拠がないことはない。
ビン・ラディンがそもそもすでに死んでいて、治療したが目撃したとかいう説があって、死んでいる人間をどうやって襲撃できるんだ、だから死体はまったく公表されず、火葬も土葬もされず、水葬されたんだろう、死体があればそこが聖地になるとかいうのはとってつけた理由で、DNA検査をしたことにするためには死体が存在していては困るわけだろう、テロとの戦いを標榜して、莫大な国家予算を費やしてきたアメリカとしては、ビン・ラディンが病死していたなんてことはあってはならないし、かといって、この先ずっと世界の警察となって、テロリストと戦い続けるはもう無理、みたいなことになってきたし、ここらでなんらかの終止符を打たないと大変なことになるから、ビン・ラディンのアジトを発見し、ついに襲撃して、見事に殺害したということにすれば、ラディン一族やサウジアラビアとの関係もぎくしゃくしないですむだろうし、アメリカ市民の留飲も下がるし、正義の為に戦ってきたという大義名分も立つし、なにより、テロとの戦いに厭き、疲れ果ててきたアメリカ合衆国のカンフル剤になるし、そのためにはCIAがずっと内緒で頑張ってきたんだよと報道しなくちゃいけないし、適当な時期に、関係者の証言をもとにするという形で凄まじく面白い映画を製作し、高卒でリクルートされた女性が、CIAの分析官として10年も戦い続け、自分も危機に陥りながらも友達の死を乗り越え、ついに本懐を遂げるという設定にすれば、世の男どもはおろか女性の皆さんも納得してくれるんじゃない?
てな感じだ。
こういう批評が出てくるのは当然なことで、どれだけ完璧にちかい出来栄えの映画であろうとも、フィクションとかノンフィクションとか、ドキュメンタリとかいった区別なく、演出やカメラというフィルターが存在するかぎり、たしかに、真実ではなくなっている。
スタッフが命がけで真実に迫ろうと努力して、それなりの満足を得られたにせよだ。
だからといって、この映画がすべて嘘っぱちだと断言されても、困る。
正直、ぼくは、ビン・ラディンがすでに死んだか、この襲撃で殺害されたのか、はたまた襲撃されたのは影武者で、依然として生存し、テロ活動の指揮をとっているのか、そのあたりのことについては、なんの知識もないから、なんともいえない。
ただ、ひとつだけいえることは、くりかえしになるけど、この映画はめちゃくちゃおもしろかった、ということだ。
ビン・ラディンのアジトを再現するなど細部にわたった絵作りも見事だったし、最初から最後まで緊迫と昂揚を維持させる不気味な低音の音楽もまた凄いし、襲撃場面の撮影にいたっては、赤外線暗視スコープをカメラに取り付けたような絵もさることながら、どうやって照明したんだろう、デジタルカメラの凄いやつはライトなしでも大丈夫なわけ?
とか悩んでしまうような新月の夜の場面には、ずっと首を傾げながら驚き続けてた。
けど、この映画は、なにが優れているかといって、アメリカ合衆国の戦いを、ひとりの女性の戦いに置き換えてしまったことだ。映画のすべてを、ジェシカ・チャステイン演じる分析官マヤの視点で描いている。だから、しょっぱなの2001・9・11の場面は、真っ暗闇の中に実際の声だけで表現された。だって、そのとき、彼女はまだ高校生で、テロの現場にはいなかったんだもん。
彼女が実際の現場を目撃するのは、現地に赴任してからのことで、だから、延々と展開される拷問という現実にもおもわず眼をそむけてしまうわけだ。この拷問の場面は、やっぱり一部で問題にされたらしいけど、実際に拷問が行われたとかどうとかいうのではなく、この映画では必要だったという、ただそれだけのことだ。観客や批評家が「こんなことは現実ではない」とか「真実はちがう」とかいうけど、それって、なんだか違うんじゃないかな~とおもったりするんだよね。
原作はほんとはこうじゃないんだよ~と知ったかぶりするのとおんなじなんじゃないかと。
だって、映画は独立したひとつの作品で、そこに表現されている世界はその映画のための世界にすぎないんだもん。
だから、この作品では、9・11はビン・ラディンの命令によって為されたものだし、主人公たちの身にも降りかかってくる自爆テロは、ラディンによる攻撃だと解釈されるし、パキスタンの主権を侵害するような越境襲撃と殺害も実際におこなわれたとされる。
実際にあったかどうかではなく、それらの行為と行動はこの映画において真実なんだよね。
まあそれはさておき、拷問から眼をそむけ、机の上の埃を気にし、発言にも自信がなかった彼女は、徐々成長してゆくわけですよ、友達が殺されたり、現場がちっとも動かなかったりすることで。やがて、この砦のような建物にビン・ラディンは100パーセント隠れてると断言するわけです。つまり、この映画は、ジェシカ・チャステインの眼をとおしたひとりの女性の成長譚なんだよね。
だから、10年という歳月を、ひたすらひたむきにビン・ラディンを殺すことに費やした彼女は、それに成功して、おもいもよらず有能で重要な人物になってしまったにもかかわらず、自分がこれからなにをすればいいのか、自分はいったいどこへ行けばいいのか、まったくわからないまま当惑し、自分の置かれている空虚さを実感することになるんですよ。
いや、まあ、もしも、この作品が、アメリカ合衆国の依頼により、CIA指導のもとに製作されたとしたら、ホワイトハウスの面々を一度も登場させなかったのは、監督の意図かどうかわからないけど、ジェシカ・チャステイン演じる一個人を追ったのは、見事だったとかいいようがないです。