教育受難の仕組み

先日このブログで子どもの発達のきっかけを自分の経験から①探索行動《学習本能》②子どもの話に耳を傾ける《信頼関係》の2点を挙げた。
自分はこのことを知識として知ったのは教師になってからかなり時間がかかったし知識として分っても、それが技術として使えるにはさらにかなりの時間がかかり今だって満足できるものではない。言いたいのは教育と言う営みは知識をでさらに自分の感覚にまで高めないと本当の意味で子どもとかかわり発達させるのは難しい。逆に発達の芽を摘んでしまう。実際に「教育」と言う言葉で色々やられているが、教育とかけ離れた結果はあまりにも多いのは衆知の事実だ。
教育の仕組みから考えって見たい。一般的には公立はもとよりどんな学校も、教師と子どもはもとより、学校長と一般の先生、教育行政の役人と学校長
教育行政も中央と地方、全て指導する立場と指導される立場が歴然としているのが今日の現実だろう。少々理屈っぽくなるが、果たして子どもの立場から見て発達のきっかけを知りその技術を持っているのは誰達だろうか?ちょっとしなくても子どもの発達もを知らない人たちによって子どもの指導方針が立てられていると考えるのは普通ではないか。その乖離を埋めているのが権威や権力関係だろう。
他のことはともかく教育に関しては、子どもを知らなくては教育と言う名を使っても教育にはならない。権力と名誉で自動車の運転免許や囲碁名誉○段をもらっても実際には運転できず、碁にならないのと同じようなもの。教育をどうのこうのと他に指導する上に立つ人が人たちが1年生の1時間の授業でもいい、軽い自閉症を持つ子どもと1時間でも向き合うような試みをやってほしい。教育への信頼は黙っていても高まるはずだ。昔から教師は範を示すものと言うが殆ど見たことが無い。是非、やってみせてほしい。そんな声が上がってもおかしくないはずだが。
今日ようにこの発達を無視した仕組みが強まる限り子どもの発達の芽は奪われ受難も増大することになる。関心のある人はその辺をよくよく見てほしい。
人の問題もあるがその原因になる仕組みの問題はより大きい。
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社会教育センターの先生達

この夏休み市の社会教育センターの仕事のお手伝いを少しだけどやっている。
そこの先生達と一緒に子どもの主体的な動きを尊重しながら子どもと一緒に活動している。そこにはベテランの先生もいれば浪人中の学生や大学生、教員志望の人など私意外は多くが教師経験の無い若い人たちだ。面白いのは子ども達はその若い人たちにまつわりつき追っかけている。私は悔しい思いも無いではないがこの年になれば諦めもつく。私は常ずね、「いい先生の見分け方は一目で分る。子どもに追いかけられる先生は間違いなくいい先生です」と言ってきた。私も一つの理想として努力してきた。
子どもが求めているのは理屈ではない人間的な自分に通ずる感性なんです。
私は子どもとの教育の実践は今回のお手伝いでお終いにしようと思う。
年齢で致し方ないが、実はそれで説明できないところもあるのです。
私は長いこと公立学校でまあまあの教師をやってきたつもりですが、センターの先生方を見ているとベテランの先生も感性で若い人に負けていないのです。何故私(我々)と違うのか?
原因はいろいろあるとは思いますが、学校に勤務していた頃よく思ったのは、
新卒で来たばかりの先生はピカピカしているのに、2~3年もしないうちにくすんでさびついてくる感じになる先生が多いんです。特に最近はその傾向が強い。なぜか?
新任が受ける研修の成果?なのです。研修を受け服装・言葉使い表情全て子どもの感覚から離れてしまう。何故研修を受けてさび付くか?当然さびついた指導官が指導するからです。私は理屈は教えられてもさび付いた感覚は教えられません。上下関係の指導は全面的な指導なのです。それこそ服装から挨拶まで。
今行っている社会教育センターに、時々30過ぎの青年?が来て先生と親しく話しています。若干発達上の問題を抱えているようですが、私はその人が小学校からそこに出入りしているのを見てきました。そういう人が何十年も自分居場所として出入できる場所って他にあるでしょうか。少なくても学校や病院では聞いたことがありません。センターの先生方の資質や努力もあったと思いますが気がついたのはそこの先生方は転勤が無くそこでずーと先生としていることです。そこの先生方は何十年もまえからその子のことや家庭や地域のことを知っているのです。公立学校の先生は次々転勤します。公立学校とのとの違いになりますが、子どもと先生の教育関係がちがうのです。
ちょっとしたら公立の教育行政は子どもと先生のの教育関係より行政上の官吏的・事務的関係をおっぴらに優先してはいないか。これは学校の様子をよく見てよく聞きさえすれば、どこでも誰でも確かめられると思う。ちょっと大げさかもしれないが学校は人間関係と心が不在だ。《この関係から逃れることはできませんが、良心的にわが身を犠牲にしてがんばっている先生方や現実に悩んでいる先生は思いのほか多くいます。親も同様でしょう。)
意外なことを発見した社会教育センターのお手伝いだった。
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