世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
指導者ができることとできないこと
教師と子どもの間で教師は子どもにどんなことでも指導し教えることができるだろうか?限界はあるのか無いのかを考えて見たい。
どの花が美しいか。何が美味しいか?君の好きな遊び?あなたの好きな人?
もっと言えば君の好きな勉強。君の好きな勉強のやり方。これらが教えられないことは誰の目にもはっきりしている。
さらに、野球選手がサッカーを教える。南国育ちでスキーの経験の無い人がスキーの乗り方を教える。すし屋の職人が大工の仕方を教える。中学の図工の先生が音楽を教える。これらも一般的には無理なことが分る。同じ種目でも投手出身の監督はバッターの技術は専門のコーチに任す。
ここでは指導者と指導者されるものとの基本的な関係を見た。学校教育でこれを当てはめると、直接子どもを指導する教師はそれなりの専門的な知識と技術が無くてては指導は成り立たない。教師は専門的な技術を持った専門職になる。
病院で言えば経営者である理事長は患者の診断や処方に関与しないし、してはいけない。脳外科が専門の院長先生は精神科の診断や治療は普通は控える。
学校はどうだろう?教師の上司に当たる学校長は学校経営の責任者としての仕事が職務であるが、責任は拡大解釈され、指導上の責任を負わされ、それが職務と任じている人も多い。小学校では障害児教育の経験の無い学校長が、その指導案をチェックしたり、体育専門の学校長が音楽の先生の指導に当たる。その校長は行政の上司の指示に従う。地方行政万派中央に。教育行政上の上司の部下への聞き取りは一般企業がする市場調査のような客観性は殆ど無い。そこが一般企業と異なる。しかも教育行政機構になると殆どの職員は教職の経験が無いばかりか免許証も専門の勉強すらしていない。子どもに直接関わる専門的な職人的な感覚からいうと、子どもの指導から1ヶ月もすると勘は鈍ってしまうにもかかわらずだ。野球選手や相撲取りが1ヶ月練習していないのと同じ。学校長にしても教室の現役からは離れると勘と技術の低下は免れない。
子どもへの対応や指導はそれほど厳しいのだが、現実は行政間もも校内も上意下達。
ここでちょっとおのろけになるが、私は妻《やっぱり教師だった》にプロポーズする時「僕は教頭や校長にはならないよ。文部大臣なら分らないけど」と言ったら彼女「そんなの目指す人とは結婚しないよ」と言うことで目出度くゴール。
要するに、音楽の演奏家は指揮者やプロダクションの経営者を目指さない。絵書きにしろ役者にしろ同じだ。学校は回転寿司の経営者《すし職人でないことが多い》が店員にすしの握り方を指導しているようなものだ。そんなことをすればやばくて食べられたものではないから普通は分際をわきまえそんなバカなことはやらない。先生方はそれを強いられている。だから逃げ出す子ども(不登校夜学校不適応児)や悩んでる先生は見事に多い。日本は子どもに何をどう教えるかは教師さえ通り越し《お上》が決める。教育史をかなりさかのぼるこのやり方は今まで訪ねた国々の中でも最高だった。近々似たような感じの隣の韓国へ行って比べてみたいと思っている。
どの花が美しいか。何が美味しいか?君の好きな遊び?あなたの好きな人?
もっと言えば君の好きな勉強。君の好きな勉強のやり方。これらが教えられないことは誰の目にもはっきりしている。
さらに、野球選手がサッカーを教える。南国育ちでスキーの経験の無い人がスキーの乗り方を教える。すし屋の職人が大工の仕方を教える。中学の図工の先生が音楽を教える。これらも一般的には無理なことが分る。同じ種目でも投手出身の監督はバッターの技術は専門のコーチに任す。
ここでは指導者と指導者されるものとの基本的な関係を見た。学校教育でこれを当てはめると、直接子どもを指導する教師はそれなりの専門的な知識と技術が無くてては指導は成り立たない。教師は専門的な技術を持った専門職になる。
病院で言えば経営者である理事長は患者の診断や処方に関与しないし、してはいけない。脳外科が専門の院長先生は精神科の診断や治療は普通は控える。
学校はどうだろう?教師の上司に当たる学校長は学校経営の責任者としての仕事が職務であるが、責任は拡大解釈され、指導上の責任を負わされ、それが職務と任じている人も多い。小学校では障害児教育の経験の無い学校長が、その指導案をチェックしたり、体育専門の学校長が音楽の先生の指導に当たる。その校長は行政の上司の指示に従う。地方行政万派中央に。教育行政上の上司の部下への聞き取りは一般企業がする市場調査のような客観性は殆ど無い。そこが一般企業と異なる。しかも教育行政機構になると殆どの職員は教職の経験が無いばかりか免許証も専門の勉強すらしていない。子どもに直接関わる専門的な職人的な感覚からいうと、子どもの指導から1ヶ月もすると勘は鈍ってしまうにもかかわらずだ。野球選手や相撲取りが1ヶ月練習していないのと同じ。学校長にしても教室の現役からは離れると勘と技術の低下は免れない。
子どもへの対応や指導はそれほど厳しいのだが、現実は行政間もも校内も上意下達。
ここでちょっとおのろけになるが、私は妻《やっぱり教師だった》にプロポーズする時「僕は教頭や校長にはならないよ。文部大臣なら分らないけど」と言ったら彼女「そんなの目指す人とは結婚しないよ」と言うことで目出度くゴール。
要するに、音楽の演奏家は指揮者やプロダクションの経営者を目指さない。絵書きにしろ役者にしろ同じだ。学校は回転寿司の経営者《すし職人でないことが多い》が店員にすしの握り方を指導しているようなものだ。そんなことをすればやばくて食べられたものではないから普通は分際をわきまえそんなバカなことはやらない。先生方はそれを強いられている。だから逃げ出す子ども(不登校夜学校不適応児)や悩んでる先生は見事に多い。日本は子どもに何をどう教えるかは教師さえ通り越し《お上》が決める。教育史をかなりさかのぼるこのやり方は今まで訪ねた国々の中でも最高だった。近々似たような感じの隣の韓国へ行って比べてみたいと思っている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )